天保八年 六月四日(1837/7/6) 雪浦村 冨永屋敷 <次郎左衛門>
「あ痛……」
痛みと共に目が覚めた。
「おお! 目が覚めたぞ!」
一之進が俺の顔を見て安堵の声を上げる。それを聞いて、交代で仮眠をとっていた信之介にお里が駆け寄ってきた。
「大事ないか?」
「次郎君、大丈夫?」
なんだか少しめまいがする。
「う、ん……。大丈夫だから、大声出さないで」
傍らでは助三郎と角兵衛が、悲痛な面持ちだ。
「若様、若様、よくぞご無事で……若様にもしもの事があったならば、それがし、腹を切って詫びるところにございました」
「それがしも同じにございます。本当にご無事でよかった」
おいおい、主君が怪我したり死んだりしたら切腹するって、あれマジな話だったのか? 確かに人の命が軽い時代ではあるけど、実際に聞くと止めてくれってなるよな。
「二人とも死ななくてもいい。気持ちはありがとう。あ痛……」
起き上がろうとするとまた痛みが走る。
「じっとしてろ。血は止まったが油断は出来ないんだぞ。抗生物質のこの字もない時代なんだから。ペニシリンさえない。化膿して敗血症になりでもしたら、命が危ない」
ああ、ペニシリン。仁せんせいね……。
「包帯を替える。止血したあと水で洗ったが、これを塗る」
傍らから取りだした膏薬をゆっくりと傷口に塗る。
「痛たたた……もうちょっと優しくしてくれ」
「これは我慢しろ。紫雲膏といって解毒・抗菌・抗炎症作用がある」
一之進はそういって、丁寧に傷口に薬を塗っていく。いつもはみんなで馬鹿話しているけど、こんな時代でさえ医者がいるっていうのは本当にありがたい。
それにしても紫雲、膏……シーウンコー? 外科医って漢方の知識もあったんだろうか?
「ほら、今度はこれを飲め」
「これはなんだ?」
「スベリヒユを煎じたものだ。雑菌の繁殖と炎症を防いで、化膿止めにもなる」
「へえ……」
おいしくは、ない。苦くて飲めないほどでもないが、飲みたいと思う味でもない。
「今のところ悪寒や発熱、発汗はないから、敗血症の可能性は少ないが、まだ安静が必要だ」
一之進によると、もし敗血症が進行すれば、心拍数や呼吸数の増加に血圧の低下や排尿困難、意識障害が起きるらしい。
最終的には臓器不全を起こして死に至る。
……。
俺は、前世では医者嫌いだった。
病院も嫌いでめったに通院もしなかったが、これほどありがたいと思った事はない。命の危険にさらされると、人生観というか死生観が変わるって本当なのかもしれない。
「しかし、いったい誰がこんな真似を……」
信之介がボソリと言った。
「まさか、猟師さんってことはないよね?」
お里が言う。
「それはないだろう。左右の山からは街道がよく見える。狙わなきゃ街道を行く俺たちに玉が当たるはずがない。仮に誰かが猟師を使ってやったとしても、間違いなく足がつく」
鉄砲の所持が許可されているのは猟師だけだから、状況からして疑われるのは猟師だ。しかしそんな間抜けな事をするか?
「じゃあ一体誰が」
……。
「まあ、みんなが考えている事が、当たらずとも遠からずってとこなんじゃない?」
俺は冷静を装って言うが、それがもし本当なら、マジでやべえんじゃねえか? 殺されるぞ。
「誰?」
お里がみんなの顔を見回す。
「俺の存在が目障りで、殺さないとしても、警告をして出る杭を打とうって人だよな……」
……。
「まさか御家老様やお城の連中……って事か?」
一之進が言ったが、信之介も同じ考えのようだ。
「可能性としてはな。消去法というか、恨まれる覚えがないから、それしか考えられない。もちろん、状況証拠だけどな」
「それで、どうするんだ?」
俺は信之介の問いに答える。
「どうするも何も、なんにも出来ないよな。実際。警察ったって、まあ届けは出すけど、雪浦村での事だから鷲之助様に伝える事になるから、ご迷惑をおかけすることになる」
「何が迷惑なものか! 領内で刃傷沙汰があったのだぞ。当然の事ではないか!」
信之介は怒り心頭だ。ダメ元で届け出をだそう。
……と思ったが、すでに留守居役が鷲之助様に届け出をしていた。さすが、仕事が早い。
■某所
「馬鹿者! 当てたじゃと? 脅すだけじゃと言うたではないか!」
「申し訳ありませぬ! 突然馬が暴れ出して狙いが狂ったのでございます」
「くそう! これで奴が死にでもしたら大問題ではないか。殿の事だ、烈火の如く怒り狂って調べを進めるに違いない。お主、よいか? お主とわしは見ず知らずの他人じゃ。早々に藩を出よ。金と抜け出す手配はしてやる」
「そ、そんな……」
「お主があやつに傷を負わせてしまった以上、露見すればお主もわしも命がない。よいか、他言無用であるぞ!」
■六月十五日 玖島城
「殿、石けんにございますが、泡立ちも悪く、汚れもあまり落ちぬとの知らせがはいってまいりました。これで四百文などとんでもない値にございます。我が藩の特産として売りなどすれば、藩の権威は失墜いたします」
大村五郎兵衛昌直は粗悪品(とされる)の石けんを取り上げて、藩主である純顕に進言する。
「叔父上、それは誰が買った物で、何個あるのですか? そのような評判、はじめて聞きましたぞ」
年齢も上であり、叔父である五郎兵衛に対して、純顕はあえて敬語で話した。
「それは……それはしかと聞いてはおりませぬが、そのような事は些末な事にございます。ただちに販売を止め、次郎左衛門殿には出仕を禁じてはいかがでしょうか」
「さようか、そこまで言うのであれば考えなくもないが、皆はどうか?」
純顕は満座を見渡すが、全員が顔を見合わせるばかりで意見がでない。
「ふむ、では一方の言ばかりを聞いても話が進まぬ故、次郎左衛門の話も聞くとしよう」
五郎兵衛の顔が引きつった。
(銃創で動けぬはずではないのか? もう回復したのか?)
<次郎左衛門>
「次郎左衛門武秋、お召しにより罷り越しましてございます」
「次郎よ、苦しゅうない、近うよれ。面を上げよ」
「ははっ」
「よい。苦しゅうない、近う寄れ。直答を許す」
「ははっ」
毎回面倒くさいなあ。このルーティン? 俺は言われるがままに近寄り、面をあげ正対するが、まだ傷口は完治してなくて痛む。
あいたたた。
「次郎よ、其の方、石けんの質には自信はあるか?」
「は、申し上げるまでもございませぬ。何度も試し配合を調整して、実際に使ってその効果は我が身が知っておりまする」
「ふむ。ではこれはなんじゃ?」
殿は木箱に入った石けんもどきを俺に見せて言った。
「拝見します」
うーん。ベタ過ぎる。あまりにもベタ過ぎるぞ。
「これは……一言で言えば、模造品にございます」
「模造した品だと言うのか?」
あーまじで、先日の銃撃犯の確信が高まっちまった。
「失礼ですが、これはどちらで? 本物ならば箱と石けんにも刻印がございますし、使い方を書いた保証書もございます」
俺の問いに殿は目で答えた。その視線の先には御家老がいた。五郎兵衛の方ね。
……。
「叔父上、次郎左衛門は偽物だと言うが、其の方の存念はいかがか?」
五郎兵衛は黙っていたが、意を決したように発言した。
「殿、ここで真贋を確かめても仕方ありませぬ。要はこのような物が行き渡り、まがいものが本物として売られている事が問題にございます」
開き直った! ?
ん? これ、五郎兵衛の仕業じゃないのか? いや、形勢が悪いとみてとっさに言い逃れをしているのか?
まあいいや。
「して、叔父上は如何にすればよいと考えているのですか?」
殿が五郎兵衛に聞く。
「然れば、しかるべき者が作り、しかるべき者が扱って売らねばならぬと考えます」
「しかるべき者とは?」
「それは……」
はあ、面倒くさい。どうせ自分たちの息の掛かった御用商人とかそんなところだろ?
「構いませぬ。どうぞご随意になされませ。材料と配分、作り方は指南いたしますし、建設中の藩の製造所の監督管理もお任せいたします」
五郎兵衛の、安心したような、どうだと言わんばかりの顔が見えた。
「次郎左衛門よ、それではお主の功……せっかくの苦労が台なしではないか」
「構いませぬ。ただし」
「ただし?」
「ただし、油の買い入れと長崎の大浦お慶の販路は、それがしとの契約にて、これは譲る事はできませぬ」
「な! ……よ、よかろう。殿、いかがなさいますか?」
五郎兵衛の顔が引きつっているように見えたが、知らん。勝手にやってくれ。こっちはお慶ちゃんから掛けで材料を仕入れて、その分を引いて売ればいい。
「あいわかった。それではそのようにいたすとしよう。次郎左衛門はあくまで個人販売、叔父上、いや五郎兵衛差配の石けんは藩の利得とするが、それでよいか?」
もちろん、これは売り言葉に買い言葉で、利益を独占するつもりはないよ。後で殿には言うけどね。
「ああそれから」
予想外の出来事があったので忘れていた。
「先日、このような事がありましたが、どうやらそれがしの行いに不満を持っている方がいらっしゃるようです」
「いかがした?」
「失礼して、よろしいでしょうか?」
俺は殿に、裃を脱いで、右腕が見えるような格好になる許可を得た上で、ちょうど遠山の金さんみたいな格好で腕をまくった。
「なんと!」
満座にざわめきが起きた。
直ちに捜査が行われたのは言うまでもない。
次回 第22話 『石けん販売の今後と領内でしばしの休養』
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