安政五年五月一日(1858/6/11) 江戸城 御用部屋
「して掃部頭様、如何致しましょうか」
「ふむ、まずは水戸のご老公であろう。海防参与、軍制改革参与となっておるが、如何なるものか。その見識を聞き、今の時勢にあわぬのなら、罷免もやむなしであろう」
「はは」
「此度はわざわざ登城していただき、忝うございます」
「なんの、国政のためでござる。厭いませぬ。して、何用でござろうか」
南紀派と一橋派、開国派と攘夷派。その2つにおいて直弼と対立している徳川斉昭であったが、好き嫌いより良し悪しである。呼ばれれば登城すると公言している。
「然ればお尋ねしたい。水戸殿は攘夷を唱えておられるが、如何にして行うのか、また能うのかを伺いたい」
「攘夷の方策にござるか。然ればまず、我が国の防備を固めることが肝要じゃ。沿岸部の備えを強め、大砲や鉄砲の製造に力を入れねばならぬ。同時に各家中の兵を結集し、公儀の指揮下とする事も肝要である」
斉昭の声には力強さがあったが、その眼には僅かな不安の色が見え隠れしていた。
「然様……でございますか。某はつぶさ(具体的)に、如何致すかお伺いしたかったのだが、沿岸の警備強化と各家中の兵を公儀のもとにまとめるとは、然るべし(当然)ではございませぬか」
直弼の言葉に斉昭の眉がわずかに動いた。御用部屋に漂う緊張感がさらに高まる。
「某が申し上げたのは、単に備えを強め、兵を統べるに留まらぬ。我が国の技術を高め、西洋に劣らぬ武器を造り出すことじゃ。それには莫大な費用と時を要する。然れどそれなくしては真の攘夷など叶わぬ」
斉昭の声に力が籠もるが、直弼は呆れたようにため息をつき、反論した。
「然に候。真に攘夷をなさんとすれば、水戸殿の仰せの通りにございますが、開国せずに如何にして我が国の兵を強め、異国に勝てる戦道具を備えるのでございますか」
斉昭の目が見開かれ、その老いた顔に驚きの色が浮かぶ。直弼の言葉が、彼の理想と現実の隔たりを鋭く突いたのだ。
「む……確かに、掃部頭殿の仰せはもっともじゃ。だが、開国すれば我が国の独立が危うくなる。それは目に見えておる」
「何故にございましょうや。条約を結び開国をしたとて、我が国は独立しております。条約の中身にしても、いくつも彼の国の要望をはねつけ、我が国に害なすものではありませぬ。そうして開国を行い、力を蓄えた後に、そのとき異国が害なれば、討ち果たせば良いと考えておりますが、如何に?」
直弼は静かに頷き、穏やかな口調で返した。
斉昭の眉間に深い皺が寄る。直弼の言葉に一理あることは認めつつも、長年抱いてきた信念を簡単に捨て去ることはできない。彼は目を細め、じっと直弼を見つめた。
「開国しても独立を保てるというのか。確かに条約の文面上はそうかもしれぬ。然れど一度彼奴らに足溜りを与えれば、次第に我が国の政にまで口入れいたすのは必至じゃ。それこそが真に危うき事ではないか」
直弼は斉昭の言葉を聞き、諦めた。もうだめだ、と思ったのだ。
「水戸殿、口入れ口入れと仰せだが、ひとつお伺いいたそう。米利堅国が和蘭国の政に口入れしておりますか? 和蘭国が英吉利国に口入れしておりますか? しておらぬでしょう。何故か? 内政不干渉との不文律があるからにございます」
直弼はさらに続けた。
「何故その不文律が成り立ったか? 戦って勝ち得たのでございます。米利堅国も八十年前は英吉利国の植民地であったのです。武力によって勝ち取ったのです。いま、一国がこの日本を牛耳るなど、他の国が許さぬのです。では清国のようになるのか? なりませぬ。そうならぬ為に、米利堅国と結び、他の国を抑えねばならぬのです」
「うべなるかな(なるほど)、米利堅国と手を結び、異国の勢力を抑えるというのは、一つの策かもしれぬ。然れどそれは果たして長く保たれるか? 米利堅国も、いずれ我が国を利用しようとせぬ保証がどこにござるか」
……直弼は最後の一言を斉昭に突きつけた。
「水戸殿のお考え、よく分かり申した。できもせぬ攘夷をただ叫ぶだけの無為無策。海防参与、軍制改革参与など、とてもとても務まりますまい。お辞めいただこう。方々、決を採りたいが、如何に?」
斉昭の顔から血の気が引いた。直弼の言葉が、まるで雷のように彼を打ちのめした。御用部屋の空気が一瞬にして凍りつく。
「な、なんと! ?」
斉昭の声は震えていた。目には驚きと怒り、そして深い失望の色が浮かんでいたが、一方の直弼の表情は冷徹そのものだった。彼は静かに、しかし確固とした口調で続けた。
「水戸殿、我らはいま国家の存亡をかけた岐路に立っており、もはや攘夷一辺倒では国を守れませぬ。それをお分かりにならぬのであれば、致し方ございませぬ」
直弼は言葉を切り、周りの老中たちを見渡した。すでに数の上で攘夷派は少数であり、参列者の多くは、直弼の意見に同調しているようだった。
「方々、決をとりたい。水戸殿の海防参与、軍制改革参与の罷免について、賛成の方は挙手を願おう」
老中たちの間でざわめきが起こったが、それも束の間のことだった。次々と賛成の声が上がり始め、斉昭はただ黙ってその様子を見つめる他なかったのだ。
大老職は強権とはいえ人事権はない。しかし将軍の信任厚く、公論にて決をとって決めた罷免を覆すのは、不可能であった。
攘夷論者の代表格である徳川斉昭の失脚は幕府内部に大きな波紋を呼んだが、それを良しとする者、次は自分ではないかと心中穏やかでないもの、それぞれの思惑がからみあい、混迷の度合いを深めていく。
そして将軍家定は次期将軍を紀州慶福とする内意を示し、ここに南紀派の勝利は目前となった。
次回 第221話 (仮)『条約とベッセマー転炉』
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