第214話 『咸臨丸とハリスの江戸出府』

 安政四年八月六日(1857/9/23) 江戸城

「なりませぬ! なりませぬぞ! それだけは絶対になりませぬ!」

 大声でまくし立てるのは海防参与の水戸藩主、徳川斉昭である。アメリカの大使(日本領事予定)が艦隊を率いて再び下田へ入港したというのだ。

 老中首座の堀田正睦まさよしをはじめ、阿部正弘の死去により正睦より再任され老中になった松平乗全のりやす、松平忠固ただかた(松平忠優ただますより改名)の他、久世広周ひろちか、内藤信親がいる。

 ハリスの要求はアメリカ合衆国大統領の親書を将軍に直に手渡す事と、アメリカ人の居住権の確保である。

 堀田正睦は目を閉じ、ゆっくりと息を吸って、吐いた。

「水戸殿、貴殿の公儀に対する忠義は見事にござる。さすが御三家、天下の範たるものにございましょう。然れど、我らは現に起きている事を深く見据えねばなりませぬ」

 正睦は斉昭にそう言って、居並ぶ幕閣を見回し、続けた。

「さきごろ、亜墨利加、英吉利、仏蘭西、和蘭、そして露西亜と条約を結びましてございます。ひとまずは落着を見たと考えておりましたが、亜墨利加の狙いは親書の受け渡しと亜墨利加人の居住の権にございます。今また英吉利と仏蘭西は清国において再び戦を起こし、これをさらに侵さんとしております」

 ……。

 誰も何も発言せず、正睦の次の言葉を待っている。斉昭も、正睦にすべてを話させて、反論しようと身構えているのだ。

「おそらく、戦はまた英吉利が勝ち、清国は多大なものを失うでしょう。そして次は我が国なのです。そこで水戸殿にお伺いしたい。もしハリスが強硬なる手に出て、下田より艦隊を江戸の内海奥深く北上させ、然る後に上陸し、江戸城を目指したなら何といたしますか」

 正睦の問いかけを聞いた斉昭は、一瞬目を見開いた。その表情には怒りと共に、わずかながら動揺の色が浮かんでいる。しかし、すぐに気を取り直し、毅然きぜんとした態度で答えた。
 
「堀田殿、然様な事とあいなれば、我らに選択の余地などございますまい。江戸城は公儀の威光、日本の民の拠り所にして魂にございますれば、彼の地を守るため、我ら一同、命を賭して戦うのみでございます」

 ふふ……ふふふふ……。

 正睦が笑い、それと同時にクスクスと笑い声がおきた。

「な! 何を笑うか! 何がおかしなことがあろうか!」

「失礼」

 正睦は笑うのをやめ、万座が静まりかえる。

「では水戸殿。如何いかにして防ぐのですか」

「それは……そのための台場にございましょう。何のために何万、何十万両もかけて造ったのですか? 斯様かような時のためにございましょう」

 正睦は深く息を吐き、静かに、しかし明確な口調で語り始めた。

「水戸殿、仰せの通り台場の存在、加えてその役割はよくよく承知しております。されど造りし後、幾度練兵を致したでしょうか。幾度大砲を放ち、如何ほどまで届き、次の弾を撃つまで如何ほどの時がかかるか、その子細を調べあげ、常に常在戦場であらねばならぬところ、実のところはいかがなものか」

 事実、二度にわたるペリーの来航とプチャーチンの来航、そして前回の4か国連合艦隊の下田集結にしても、台場の兵たちの士気は高いとは言えなかった。

 また、予算不足のために訓練は行われず、設置のさいに行った試射のみである。

 つまるところ、練度と士気は低かったのだ。

「恥ずかしながら、十分に行えているとは言い難い。その上で戦って、必ず勝てると言い切れますか? ここは、絶対に勝てる、という目算なくば、戦って負けて、江戸の町に累が及ぶ事になれば……然様な事は万に一つも、百万に一つもあってはならぬのです」

「ぐぬぬ……」

「それに居住地の事にござるが」

 正睦は江戸出府はあり、との前提で話を先に進めた。

「なんの不都合がありましょうや。確かに江戸をはじめ、いずれの市中でも異国人が自由に歩き回れば、様々な障りがあるでしょう。しかるに此度こたびはただ、そこにいる事を許すのみにございます。出島の和蘭カピタンのように、自由に出入りを許すものではありませぬ。日本人の出入りは厳に管理して、災いの及ばぬようにすればよいのです」

 正睦の言葉が終わると、斉昭は依然として不満そうな表情を浮かべていたが、即座に反論する言葉は見つからないようだった。その沈黙の中、他の老中たちが慎重に意見を述べ始めた。

 松平乗全が静かに口を開く。

「堀田殿の仰るところ、まさにその通りかと存じます。まず、ハリスの江戸出府を認めれば、我が国が対等な立場で交渉に臨む姿勢を示すことができましょう」

 加えて、と続ける。

「次に、亜墨利加との関わりを深めることで、英吉利や露西亜といった他国の圧力に処する事能いまする。また、限りをもって亜墨利加人の居住を認めることで、彼の国の進んだ知識や技術を学ぶ機会も得られましょう。これは我が国の富国強兵に繋がるものと考えます」




 結局は幕府の大勢は開国に動いており、阿部正弘がいなくなった今、海防参与として参画しているものの、斉昭の発言は影響力を弱めていたのである。




「これはこれは、丹後守殿(大村純顕)の懐刀、今や時の人となった太田和次郎左衛門殿ではございませぬか。如何いかがですかな、お加減の方は」

 登城した次郎は、皮肉とも取れそうな正睦の言葉を気にもせず発言した。

「とんでもありませぬ。それよりも然様なお心遣い、真に有り難く存じます」

 心にもない発言の次郎であったが、犯人はまだ捕まってはいない。

「下手人は、いまだ見つかりませぬか」

「残念ながら……して、此度はハリスの件にござろうか。……また、我らの為す事になにか存念があるのだろうか」

「いえ、特には。ただ、居住の件に関しましては、十分にご留意いただき、我が国の民に障りのないように……」

「然様な事、貴殿に言われずとも、よく心得ておる」

「は、それは失礼をいたしました」

 登城の許可を得るまではいつものように時間がかかったが、今回はすぐに用件が終わった。

 ■長崎 海軍伝習所

「これが、咸臨丸か」

 回航されてきた咸臨丸を岸壁から見上げながら、勝海舟がつぶやく。矢田堀鴻が新たに艦長となり、勝は観光丸の艦長になる予定だ。

「観光丸が四百トン、この咸臨丸でさえ六百二十五噸しかない。大村海軍はすでに八百噸を二隻持ち、そして千噸を四隻建造中だ。和蘭には二千噸近い船を注文したとも聞く。公儀は、公儀はいつ、追いつけるかのう……」




 次回 第215話 (仮)『居住権と為替レート』

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