安政六年六月六日(1859/7/5) 江戸 一橋慶喜邸
『勅を以て~中略~一橋刑部卿慶喜、隠居の沙汰を取りやめるものとする』
「ふむ、これはまた、如何なる事か」
一橋慶喜は江戸の邸宅で読み上げられた沙汰を、再度頭の中で読みあげ、前後関係を考えた。
「円四郎、如何に?」
「は、某が如き非才にはわかりかねる事ゆえ……」
「然様な遠慮はよい、お主は如何思うかと聞いておるのだ」
腹心の平岡円四郎は一をもって十を知ると言われた秀才であったが、その円四郎に慶喜が尋ねた。
「思いますに、朝廷を動かした大いなる力があったのではと考えます。御公儀開闢以来、朝廷が御公儀の沙汰に口を挟む事などありませんでした。然すればその慣例を破るほどの大いなる力かと」
「それはなんじゃ?」
慶喜が詰め寄って聞くが、円四郎は答えない。
「西国の家中か? 島津か越前か?」
「それは存じ上げませぬが、いずれにしても、井伊直弼が意のままにならぬ事が起きたのは確かにございましょう。調べを入れぬ事にはわかりませぬ。ともあれ、隠居の沙汰がなくなり、ご当主に戻られることはめでたき事にございます」
慶喜はいきなり隠居謹慎になったのではなく、まず登城停止、そして隠居謹慎になったのだ。
「……然様か。将軍継嗣などという嫌な立ち回りをせずとも良くなったかと思えば、それとは別に違勅の条約を諫めようとすれば隠居謹慎となった。そうかと思えば沙汰の取りやめである。嬉しき事ではあるが、なにやら得体の知れぬ力が働いておるようだの」
円四郎は答えない。
「円四郎よ」
「はは」
「お主は如何思う? 攘夷は是か非か? 開国は是か非か?」
「……某の思うところを申し上げてもよろしいので?」
「構わぬ、申せ」
慶喜は腕を組み、円四郎に背を向けて天を仰いでいる。
「然らば申し上げます。攘夷は夷を攘うものにございますが、夷とはすなわち蛮人の事。然りながら異国がすなわち夷であるかは、一概には言えぬと考えます」
「ふむ」
「つまりは夷狄が悪ならば何としても打ち払わねばなりませぬが、そうでない時は、良き物は取入れてもよいかと存じます」
「うべなるかな(なるほど)」
そう言って慶喜は考え込む。
「いずれにしても、将軍になど興味はないが、この心の中のはっきりとしない思いは、明らかにせねばなるまい。井伊直弼、ああそうだ、近ごろ切れ者が新たに勘定奉行と外国奉行を兼ねておるそうだな? 兼ねるとは、よほどの者に違いない。円四郎、だれか、推挙してその者に仕えさせる事ができるものはおらぬか? 井伊の考えを知るにはそれが早かろう」
「一人、おりまする」
■長崎 電信所
「こ、これは何でござろうか? 珍妙なカラクリにございますな? 他にも縄が無数につながっておりますぞ」
「栄一郎よ、それは『てれぐらふ』というものだ。嘉永の終わりにアメリカの提督ペリーが持ち込んだのだ」
「その、『てれぐらふ』はいったい何をするものなのですか?」
「……」
なぜここにテレグラフがあるのだ? あるはずがないではないか? 何やら西国の家中で……いや、大村家中に間違いなかろう。彼の家中は自前で蒸気船をつくれるのだ。
テレグラフがあってもおかしくはない……。
上野介の心中は穏やかではないが、奉行所の役人が送信が終わった旨を上野介に伝えた。
『公儀ヨリ勘定並ビニ外国奉行小栗又一様ゴ来訪、明日ニモ大村ニ向カワレルヨシ』
■翌日
「お、小栗様! あれは、あれはなんでございましょうか?」
船が西彼杵半島の外海地区、七ツ釜の沖に差しかかった時の事である。すでに大村藩では1,700トン級の建造を終え、試験航海にでるところであった。
「あ、あれは、黒船でございましょうや! なにゆえ、なにゆえこの肥前の地で黒船が? 長崎以外には泊められぬはずではございませぬか?」
黒船は黒船でも、外国の物ではない、純国産の軍艦である。10月には最新クルップ砲を搭載した軍艦もオランダより回航される予定なのだ。
「あれは……あれは、大村家中の船であろう」
ここで嘘を言った所で無駄である。合理主義者である上野介は、例えそれが大村藩の物であったとしても、日本のためになるならと、ためらわずに取り入れるという考えであった。
幕府海軍咸臨丸は右手に見える七ツ釜造船所を過ぎ、早岐の瀬戸を回って大村湾へ向かった。
■川棚工業地帯
「な、なんだこれは……」
大村藩庁にて藩主純顕への挨拶が終わった上野介は、途上で見かけた工場群が頭から離れず、すぐに視察を申し入れ、川棚へと向かったのであった。
正直なところ幕府と大村藩の関係は良好ではない。幕府が、というよりも井伊直弼や彦根藩に対する恨み辛みである。和解したとはいえ、そう簡単に感情が消え去るわけではない。
しかしそうは言っても幕府からの視察の命があったので、断る事もできなかった。大船建造の禁を廃して建造を許可した際に、技術的な事は教え、供与するというのが約束だったからだ。
「小栗様、こちらが高炉ならびに反射炉にございます」
次郎は上野介に川棚川上流にある製鉄所を案内し、簡単に説明をしていた。上野介はもうもうと上がる製鉄所の煙に工場群の機械音、人々の喧噪にただ呆然と立ち尽くすばかりである。
「……これは、なんでござろうか?」
上野介が指差したのは新型転炉である。
「ああ、これは家中で新たに開発した転炉なるものにございます。某はつぶさには存じませぬが、なんでも質の良い鉄(鋼)を大量に造るには只今の反射炉では限りがあるとのことで……」
こんな物は聞いた事がないぞ……。
冷や汗が上野介の頬を伝う。
ソルベー法の設備群ではガラスと石けんの大量生産ができ、石炭の乾溜ガスから生じるガス灯の存在も知ったのだ。上野介は、目の前に広がる光景に言葉を失った。
ここは本当に日本なのか。それとも西洋の工業地帯に迷い込んでしまったのか。
「次郎殿」
上野介は、やっとの思いで声を絞り出した。
「これらの技は如何にして……」
次郎は淡々と答えた。
「わが家中では二十年前、天保の頃より蘭書にて西洋の文物を知り、各地より英才を招いて様々な技の研鑽に努めてまいりました。その甲斐あってか今では自前で鉄をつくり、大砲をつくり、蒸気船まで造れるようになりましてございます。ペリーが浦賀に来る前より御公儀から大船建造の禁を廃すお許しをいただき、大変感謝しております」
上野介の頭の中では、さまざまな情報が渦を巻いていた。テレグラフ、蒸気船、高炉、転炉、そしてガス灯まで。これらすべてが、幕府の管理外で発展していたのだ。
「なぜだ」
上野介は、ほとんど呟くように言った。
「なぜ斯様な事、斯様な重き事を公儀に知らせなかったのでござるか」
次郎は考えるフリをしたが、すぐに答えた。
「命じられなかったからにございます」
「なんと!」
いったいこれまで、公儀の役人は何をやっておったのだ!
なにゆえ知らなかった、知ろうとしなかったのだ! これほどの技、日本人がこれほどの技を持っているのであれば、異国にいいようにあしらわれずに済んだものを!
上野介はめまいがしてきた。
製茶工場、製油設備、造船所、大砲製造所、理化学研究所(それ以外の精煉方)……。
「時に次郎殿、大村の城下でもそうだったが、ここ川棚でも『銀行』やら『株式会社』というものを見かけたが、如何なる物ぞ。たくさんの民が出入りしておったようだが」
次郎は一瞬ためらったが、やがて静かに答えた。
「はい、それらは西洋より学びし新たな商いの仕組みにございます。銀行は、民の預かり金を集め、それを元手に商売人や職人に貸し付けを行う所。株式会社は、多くの者が少しずつ金を出し合い、大きな生業・事業を興す仕組みでございます」
上野介の目が見開かれた。
「なんと……民百姓までもが……」
「然様でございます。これにより、民の手元にある小さな金も集まれば大きな力となり、新たな事業を興すことができるのです。また、商売人らも必要な時に金を借り入れることができ、事業の拡大に役立てております」
上野介は深く息を吐いた。これは単なる技術の革新だけではない。社会の仕組みそのものが変わろうとしているのだ。
■その夜
「さあ、まずは御一献」
上野介は次郎にすすめられ、冷えた日本酒を飲む。
「うまい! これは……この酒は何故に斯様に冷えておるのですか? 貴重な、氷室にて冷やしておったのですか?」
「いえいえ、これは冷蔵庫で冷やしたものです」
「れい、ぞう、こ……」
「いや、某も詳しくは存じませぬが、なんでもエーテルなるものを使って水を冷やし、凍らせるしくみのようです」
「なんと……」
あまりにも自分の想像と違いすぎて、見た事、起きた事、聞いた事を書き留めるのが精一杯であった。
次回 第236話 (仮)『各藩、各国、暗中飛躍』
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