第241話 『蝦夷地とロシア』

 安政六年十一月十五日(1859/12/8) 大阪

「なんですと? 福井の殿様が蒸気船を?」

 鴻池善右衛門は大阪で室屋(内田)宗右衛門よりその報を聞いた。

「それはまずい事になりましたな」

「ええ、そう思ったんで御用商人の筆頭である善右衛門さんにお知らせしたんです。御用金としていくら上納を命じられるか、今から冷冷物ひやひやものです」

 蒸気船の金額にもよるだろうが、藩で建造した洋式帆船で利益を得ているとは言え、それは他に|補填《ほてん》されているのだ。おそらくは蒸気船の購入分を全て賄う事はできない。

 特に室屋と三国屋は三国みなとを拠点とした廻船かいせん問屋である。藩の帆船で打撃を受けていたものの、それはさほど収益を圧迫するものではなかった。しかし、蒸気船となれば話が別である。

 御用金として上納させられた上に、商売でも圧迫されれば、仮に知行を与えられたとしても割に合わない。鴻池やその他の御用商人も、割に合う対価を得られるか疑問なのだ。

「蒸気船とは、如何いかほどするものなのでしょうか」

 宗右衛門が善右衛門に聞く。

「わかりません。ただ私は大阪で肥前大村家中の蒸気船を見た事がありますが……一万両はくだらぬでしょうな。数万両はするやもしれませぬ」

「……大きいですね」

 善右衛門の見立てを聞いて宗右衛門は短くうなずいた。

「……ええ。ただ福井の殿様が、春嶽様が船をお買いになると言う事は、海防のためか、商いのためか。いずれにしても、もし商いで使われたら、室屋さん、廻船問屋は大変ではありませんか」

「その通りです! なにか良い知恵はないでしょうか……」

 室屋宗右衛門にとっては死活問題である。

「……では、私が伝手を使って如何ほどのものか調べてみましょう。御用金を上納する儀は致し方ないとしても、私らも皆で金を出し合って、蒸気船を買うのはいかがでしょうか。皆でなら買うことも能いましょう。その儲けは出した金額に応じてという事にすればよいのでは?」

「うべな(なるほど)。では、よろしくお願いいたします」

「はい」




 ■蝦夷地 久春古丹

「なに! ? 茶江(チャイウォ)で紛争が起きただと?」

 茶江は樺太北部の町で、油田開発のために開拓団が派遣され、日本人街が形成されていたのだ。

 樺太の開発だけでなく、全蝦夷地の開発と警備は、大村藩と松前藩の共同事業である。沿岸部の砲台の設置や城郭の整備などが進行中であるが、蝦夷地の本島沿岸での電信の設置は既に終わっている。

 樺太においても同時進行で敷設が進められたため、茶江からの電信でその事実が発覚した。

「つぶさには分からぬが、急ぎ向かう。小隊(新型銃部隊)全員を乗艦させよ、加えて飛龍は、急ぎ国許に戻り、御家老様に伝えるのだ」

「はは」

 瑞鳳(S1,000t)は小隊をのせ樺太東岸を北上し、飛龍は伝令を乗せて大村へ向かった。
 
 樺太においてはクシャンコタンを中心に豊原(ユジノサハリンスク)や、西岸部の泊居(トマリオル)を経て北樺太を開拓していたのだが、嘉永年間で樺太全体の人口はロシアが1,100名前後に対して、日本人は600名前後であった。

 そのため大村藩と松前藩は有志を募り、大村藩から600名と松前藩から400名、総勢千名が樺太へ入植したのだ。安政六年の今では、ロシアの人口を上回るまでとなっていた。




 ■茶江

 到着した立石昭三郎は、混乱の中心へと急いだ。街の入り口で彼を出迎えたのは、大村藩の現地責任者、佐藤源太郎だった。

「立石殿、ご支援かたじけない。事様は刻一刻と悪くなっております」
 
「つぶさに(詳しく)教えていただけぬか」

 二人は歩きながら話を進め、源太郎は深刻な面持ちで答える。

「立石殿、思いのほか煩わしき事様にございます。如何なる故か解りませぬが、ロシア側がいきなり、この地は我らのものだと言い張ったのです」
 
「なに? いきなり如何いかがしたというのでござろうか?」
 
「はい。どうやら我らの油田草分け(開発)を怪しんだようにございます」

 昭三郎は腕を組んで顔をしかめる。

然様さようか……」

 状況は予想以上に複雑だった。

「ロシア側の代表者と交渉は能うでしょうか」

「それはわかりかねますが、やってみましょう」




 会談の場が設けられ、昭三郎とペトロビッチが向き合った。緊張感が漂う中、昭三郎は静かに口を開く。

「ペトロビッチ殿、まずは何ゆえ斯様かような仕儀になっておるのかご説明いただこう」

 ペトロビッチは鼻で笑い、昭三郎をじっと見据えた。その目は明らかに挑戦的である。

「立石殿」

 ペトロビッチは声に力を込めて答えた。

「我々の行動の理由は明白だ。この地は歴史的にロシアの影響下にあった。それを貴国が一方的に開発を進めているのは、看過できない行為だ」

 昭三郎は理解に苦しんだ。なぜなら日露和親条約で、樺太は国境を定めず、両国民混在の地であることを明記していたからだ。

「これは異な事を承る。さきの安政二年、西洋暦でいう千八百五十六年に、貴国のプチャーチン提督との間で決められた条約にて、どこに誰が住もうが、何をしようが自由だと書かれてあったはずであるが」

 ペトロビッチの表情が一瞬曇った。昭三郎の言葉が彼の論理の矛盾を突いたことは明らかだった。しかし、すぐに彼は態度を立て直した。

「状況によりけりである」

 ペトロビッチは冷たく言い放った。

「貴国の急激な入植と大規模な開発は、明らかに均衡を崩している」

 昭三郎は冷静さを保ちながら返答した。

「均衡もなにも、明らかなる定めがない以上、我らの行いに非はあらず、また斯様なこともあろうかと、開拓をするにあたって、日本側の役所は無論の事、貴国の役所にも前もって届け出を出していたはずでござる」

 ペトロビッチは顔をしかめ、苛立ちを隠せない様子で返答した。

「届け出といっても、これほどの規模とは聞いていなかった。特に、その『油田』とやらの開発は、我が国の利益を明らかに脅かしている」

 昭三郎はため息をついた。やはり油田か……。しかしだからと言って引き下がるわけにはいかない。

「ペトロビッチ殿」

 昭三郎は慎重に言葉を選んだ。

「規模云々うんぬんは関わり合いのないことにござろう。川でサケやマスを獲り、海でニシンを獲るのと何が違うのでござろうか。いずれにしても、この建物敷地から早々に立ち退いていただきたい。これは貴国の物ではなく、われらが苦労して設けたものである」

 ペトロビッチの顔に怒りの色が浮かんだ。彼は立ち上がり、テーブルを強く叩いた。

「立ち退けだと? 笑わせるな! この地はロシアの影響下にある。お前たちの一方的な開発など認めるわけがない」

 昭三郎も立ち上がり、毅然きぜんとした態度でペトロビッチと向き合った。

「笑止千万! 影響下とは何事か。条約で明確に定められた通り、この地は両国民の混在地である。我々には開発の権利がある」

 さらに昭三郎は壁をドンドンと叩き、言った。

「この建物は、誰のものでござろうか? 我らが苦心して造り上げたものであるが……」

 ペトロビッチは顔を真っ赤にし、拳を握りしめた。

「建物だと? 建物など関係ない! 問題は土地だ。この土地はロシアのものだ!」

 昭三郎は冷静さを保ちながらも、声に力を込めた。

「この土地がどちらの国の物かなど、決まっておりますまい? 条約を反故にするとなれば、明らかなる国際法違反となりますぞ? それはロシア政府の公式見解であろうか?」

 ペトロビッチは一瞬言葉に詰まった。昭三郎の論理的な反論に、彼の怒りの中にも困惑の色が見えた。

「……公式見解だと?」

 ペトロビッチは歯みしながら言った。答えられるはずがない。

 ロシア政府の見解などなく、樺太の実効支配を進めようとしていた極東軍からの指示(今回のような行動は命令されていない)だったからである。

「それは……」

 その瞬間、外から激しい銃声が響いた。

「立石殿!」

 源太郎が慌てて部屋に駆け込んできた。

「ロシア兵が我々の施設を襲撃し始めました!」

 昭三郎は一瞬目を閉じ、深く息を吐いた。そして、冷静だが厳しい声でペトロビッチに言った。

「これが貴殿の答えか? 条約を無視し、武力で押し切るつもりか?」

 ペトロビッチは答えず、部屋を出ようとした。

「待て」

 昭三郎が呼び止めた。

「これよりわが軍は自衛のための戦闘に入る。力をもって行う者には断固とした行いで処する」

 昭三郎はすぐさま部隊指揮官へ命令をし、武力によって敵を排除せよと命じた。




 帝政ロシアでは1870年よりベルダン銃と呼ばれる金属薬莢やっきょうの小銃が採用され配備されるが、11年後の事である。

 50対30で兵力としてはロシアが上であったが、後装式ライフルでロシア兵が1発撃つ間に3~4発発射されるのだ。勝敗は明らかであり、ロシア兵は死者こそ出なかったものの、ほうほうの体で逃げ帰ったのであった。




 次回 242話 (仮)『箱館ロシア領事館と大村藩、そして幕府。……やはり攘夷じょういじゃあ!』

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