第245話 『驚天動地』

 安政七年二月十一日(1860/3/3) 江戸城 評定部屋

「何? 警護の数を増やせじゃと?」

「は、然様にございます。折から樺太でのロシアによる襲撃が起こっており、箝口令かんこうれい甲斐かいなく市井に話が出回っているようでございます。然れば攘夷じょうい志士どもが不逞ふていの浪士と謀って掃部頭かもんのかみ様を襲うやもしれませぬ。国家危急の時ゆえ、念には念を入れておくべきかと存じます」

 間部下総守詮勝あきかつは、井伊直弼にそう言って警護を増やすよう進言した。

「ふはははは! 然様さような事をすれば、大老井伊直弼は浪士ごときに恐れをなしてと笑われるではないか。案ずるでない」

「然れど……」

 詮勝はなおも食い下がって警護を強化しようとしたが、直弼は受け入れなかった。




「御大老様、ただいま樺太より川路左衛門少尉さえもんのしょうじょう様、太田和六位蔵人ろくいのくろうど様、お戻りにございます」

「おお、然様か! すぐに通すが良い」

 直弼は警護の件はまるで聞かなかったかのように、川路聖謨としあきらと次郎を迎え入れたのである。




「うべな(なるほど)。あい分かった。大儀である。魯西亜を相手取って兵を退かせ、かつ大事にすることなく利のある条約を結んでくるとは、さすが左衛門少尉である」

「はは、お褒めにあずかり恐悦至極にございます」

「うむ。外国奉行として多忙であろうが、これからも頼むぞ。加えて……六位蔵人も、大儀であった」

 直弼も次郎も、お互いに複雑な感情があるが、それはそれ、これはこれである。

「恐れ入ります。時に掃部頭様、折り入って申し上げたき儀がございます」

「なんじゃ」

 直弼は無表情で次郎を見た。

「は、樺太での事を鑑みますに、警護の強化をお願い申し上げたく存じます」

 直弼の表情が険しくなる。

「またそれか……。左衛門少尉、お主は如何いかが思う?」

「然れば確かに、今は不穏な空気が漂っております。用心に越したことはないかと」

 川路聖謨は慎重に言葉を選んだが、直弼はふう、と大きくため息をつき、威厳のある声で言う。

「わしは譜代筆頭であり、大老である。不逞の浪士ごときに恐れをなす必要などあるまい」

「然れど掃部頭様、時世は……」

「存じておる。然れど警護を増やせば、それは我が弱さを示すことになる。それこそが危うき事なのだ」

 次郎の言葉を直弼が手を挙げて遮った。

「この話は仕舞いじゃ。二人とも大儀であった。下がるが良い」

「 「ははっ」 」




 ……。

 井伊直弼の言葉は、ドラマでみた通りであった。次郎の脳裏に、あの歴史ドラマで見た、真っ白い雪の中を鮮血がほとばしる映像がよぎったのである。




 ■安政七年三月三日(1860/3/24) 江戸・桜田門外

 季節外れの雪が江戸の街を覆う中、桜田門外には諸大名の行列があった。午前9時頃、彦根藩邸を出た井伊直弼の一行が内堀通りを進む。 

 突如、鋭い叫び声が静寂を破った。

「今だ!」

 水戸浪士・森五六郎が駕籠訴かごそ(直訴)を装って、駕籠に向かって突進する。彦根藩士・日下部三郎右衛門が咄嗟とっさに身をていして阻止しようとするが……。

「邪魔をするな!」

 森の刀がひらめき、日下部の顔を深く切り裂いた。

「掃部頭様!」

 パァーン! (キーン!)

 パパパパパァーン! (キンキンキンキンキーン!)

 悲鳴が上がる中、黒澤忠三郎のピストルが火を噴き、続いて連続して銃声が聞こえた。




「銃声だ! 総員現場に急行せよ! 敵味方が不明のため、籠を目がけて襲い掛かる者を撃つのだ!」




「攘夷だ! 井伊を討て!」

 怒号とともに、待機していた17名の浪士たちが一斉に襲いかかる。

「護衛しろ! 大老様をお守りせよ!」

 彦根藩士たちの必死の叫びも空しく、雪に濡れた刀を抜くのもままならない。

 その中で、二刀流の使い手・河西忠左衛門が冷静に対応する。

「こんな所で死んでたまるか!」

 河西は素早く雨合羽を脱ぎ捨て、刀を抜いて浪士・稲田重蔵に斬りかかった。




「くっ!」

 稲田が倒れるが、すぐさま別の浪士が襲いかかる。駕籠の中、井伊直弼は状況を把握しようと必死だった。

「何事だ!」

「井伊! 覚悟!」

 小窓を開けて状況を確認する直弼であったが、有村次左衛門が駕籠に飛びかかって扉を引き裂こうとする。しかしここで予想外の事が起きた。

 刀が駕籠に当たるも、鈍い音を立てて跳ね返ったのだ。

「なに! ?」

 瞬間、危険を察知したのか次左衛門は後ずさる。

「ふはははは! 浪士ごときが、このわしに刃向かうとは! 来い! 相手になってやろう!」

 駕籠から飛び出した直弼は、刀を構えて相手を威圧するが、数の差は歴然としていた。

「くっ!」

 直弼は左腕に深手を負って片膝をつくが、なおも刀を握りしめ、威嚇をする。

「きええええっ!」

 薬丸自顕流の猿叫を発した次左衛門と斬り合うも、今にも力尽きそうであった。

 ……その時。

 パァーン、パパパパーン!

 複数の銃声が響き渡り、襲撃者に襲いかかった。

 次郎が内密に潜ませてあった大村藩の歩兵部隊である。至近距離で待機できれば良かったのだが、襲撃者と間違われるリスクを冒すことはできなかったのだ。

「くそうっ! 何奴じゃ! ここまできて……無念である! ええいっ!」

 力尽きて突っ伏している井伊直弼の首を取ろうと、次左衛門が刀を振り上げた時である。

 パァーン。

 乾いた銃声が次左衛門の頭を貫いた。他の浪士達も同じように次々に銃弾に倒れていく。

「掃部頭様、掃部頭様!」

 返事はない。

 部隊長は急いで救護班を呼び、簡易タンカで彦根藩邸まで直弼を抱えていく。死亡者はそのままに、負傷者は手当を行った。




「開門! 開門! 御免候! 御免候!」

 瀕死ひんしの井伊直弼を運んだ兵士が必死で叫ぶと、門番から止められた。

「何者だ! ……こ、これは殿!」

「某、肥前大村家中の者にございます! 掃部頭様、桜田門外にて重傷にございます! 開門願います!」

「……しばしお待ちを」

 門番はそう言って、1人を残して中に入っていった。しばらくして門が開くと、40歳前後の男が現れた。彦根藩家老であり、側近の宇津木左近である。

「殿! これは! ……ええい、者ども、早く殿を中に入れぬか!」

 そう叫んだ男は家臣たちに命じて直弼を屋敷内に収容しようとしたが、驚いた事に、中に入ろうとした大村藩の兵士と医師団を止めたのだ。

「こ、これはいったい……如何いかなる事でございますか? 一刻も早く処置をせねば、命に関わりますぞ。さあ、早く入れてくだされ」

 しかし左近は動かない。

「申し訳ござらぬ。これまでの事、深くお礼申し上げる。然れどここからは家中での話にござる。屋敷内に医師もおれば薬もござる。お心遣いは無用にござる」

 ありえない……。

 そんな顔を医師団の団長はしている。

「何を仰せか! いったい如何なる治療をなさるおつもりですか? 一刻も早く出血箇所を見いだして止血をし、縫合をしつつしかるべき治療をせねば、敗血症を起こせば死にますぞ!」

 団長は怒鳴るが、聞き入れられない。確かに、よそ者と言えばよそ者だ。井伊家と大村家は譜代と外様で関わりもない。正直なところ、こんな事でもない限り接点はないのだ。

 そのよそ者に、大事な当主の生き死にを任せるなどできるはずがない、という事なのだろう。

「愚かな事を! 我らの医療水準は先の大地震での治療で、誰もが知っておりましょう。何を今さら……まさかそれでも信じるに値しないと?」

「そうは申しておりません、どうか、どうかお引き取りを」

「わかりました……。では、如何なる事があっても責は負いませぬゆえ」




 医師団は彦根藩邸をあとにした。




 井伊家中の医師と助手たちが必死の治療を続けていたが、直弼の状態は刻一刻と悪化している。

「止血が……できません!」

「脈が……弱まっています!」

 医師たちの焦りの声が部屋に響く。左近は顔を歪め、歯を食いしばっていた。

「なんとかならぬのか!」

 左近が叫ぶが、家中の主治医が汗を拭いながら答える。

「申し訳ございません……私どもの力では……」

 左近は考えている。……が、決断した。

「大村家中の医師団を呼ぶのだ! 急げ!」

 家臣が駆け出して呼びに行くが、大村藩の医師団が到着した時には既に遅かった。

 井伊直弼の呼吸はすでに浅くなっていたのだ。 

「殿!」

 左近に対して直弼は苦しそうに目を開き、かすかな声で最期の言葉を残した。

「左近……わが家を、直憲を頼む……」




 次回 第246話 (仮)『将軍後見職』

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