第255話 『ロシア軍艦対馬占領事件』

 文久元年二月十一日(1861/3/21)

 発 宗対馬守 宛 御大老

 露国軍艦来航セリ 退去求ムモ 応ジズ




 本来は3週間かかる幕府への報告も、博多に着いた時点で電信に直され、幕府と長崎奉行、そして参与である純顕の元へも届いた。実は、対馬に外国船が来航するのは初めてではない。

 一昨年の安政六年四月にイギリス軍艦アクチオン号、十一月にふたたびイギリス艦アクチオン号・ドーフ号と、2度にわたって対馬で不法に測量・上陸して白嶽に登るなどしていたのだ。

 前回と前々回は外交ルートを通じて退去させることができた。日本の弱腰、こういった事実も攘夷じょうい派を勢いづける要因になってはいたのだが、次郎も純顕も、対応を幕府に任せていた。

 しかし今回は違う。

 歴史に残る占領事件なのだ。当然次郎は事の顚末てんまつを知っているから、樺太での事件の際に言質げんちだけでなく条約を結び、国際法的にもロシアの暴走を防ごうと考えていた。




 ■大村藩庁

「次郎よ、如何いかが致そうか。わしが考えるに斯程かほど(この程度)ならば、公儀のなすままで良いかと思うが」

 例によって利純と次郎、そして海軍奉行の江頭官太夫も同席して、協議をしている。

「は、某もそのように考えまする。さきの条約で警告に応じて退去するように決めております故、これ以上の無法はないかと存じます」

「うむ、然様か。修理は如何じゃ?」

「は、某もその考えに同じまする。ここで無法をするようであれば、まさに夷狄にございます」

「官太夫は如何じゃ?」

「は、某も皆様と同じにございます。わが艦隊が出動するような事にはなりますまい。仮になったならば、それは船戦も考えにいれねばなりませぬ」

 官太夫の言葉に沈黙が訪れたが、すぐに笑い声に包まれた。

「ははははは! まあ然様な事はあるまい、のう次郎」

「は、然れど備えるに越した事はありませぬ」

 純顕の笑いに次郎も笑顔で応え、会議は終了した。




「官太夫殿、なにやら嫌な予感がいたしますゆえ、海軍は備えを」

「はは」




 ■江戸城

「まったく、またか。イギリスもそうだが、これが世界に冠たる文明国、列強というのだろうか。自分達の都合で押し寄せ、条約を結ばせ開国を迫ったくせに、何ゆえ約を守らぬ。これでは蛮夷ばんい夷狄いてきと呼ばれても仕方がないであろうに」

 対馬からの電信をみた安藤信正は、吐き捨てるように言う。

「彼奴らの行いは無法なれど、それが通ると思うておるのです。要は何もできぬと侮られておるのです。いよいよとなれば、ロシア艦一隻ならば観光、咸臨、朝陽のいずれかを遣わせばよいでしょう。それよりも今は箱館のロシア領事に伝え厳に訴えるのです」

「うむ、あい分かった」

 幕府は咸臨丸に使者をのせ、箱館へ派遣した。




 二月十九日付(23日博多着)
 露国 測量セリ 修理ノタメノ小屋建テリ 食料求メラルルモ 牛ハ断リケリ 
 
 三月二日付(7日博多着)
 露国 修理場所ニテ 人夫ナラビニ野菜買ヒ求メリ
 
 三月十日付(14日博多着)
 御指揮方願ヒ奉候(幕府に対して、現地で指揮をとってくれ、との意)
 
 三月十三日付(17日博多着) 
 伐木セリ 水兵トノイザコザアリ 大工ヲ求メ 木材買イ上ゲシ
 
 三月二十八日付(4月2日博多着)
 芋崎ヲ借リ受ケタイトノ申シ出アリ




 ■大村藩庁

「な、借り受けたいだと?」

 純顕は驚き、召集した次郎に問いかける。

何故なにゆえ斯様かような事になったのだ? 公儀は訴えを出さなかったのか」

「然に候わず、公儀は箱館の領事館を通じて外交にて問題を解こうといたしてのでしょうが、彼の国はどうやら中央と軍がまとまっておらぬようにございます。くなる上は公儀の沙汰を待っていては、人命に関わるやもしれませぬ。殿、海軍の出動をお許し願います」

「あい分かった」




 やっぱり舐めていやがった。日露通商修好条約はもちろんの事、領土主権条約を結んでおりながらこの暴挙。断じてゆるせん。次郎は憤りとともに大村海軍全艦に出動を命じた。




 ■四月三日(1861/5/12) 対馬

 次郎は対馬へ大村海軍の全兵力をもって向かわせた。

 清鷹(1,700t)・輝鷹・瑞鳳ずいほう(1,000t )・祥鳳・天鳳・烈鳳・瑞雲ずいうん(800t)・祥雲・徳行(400t)・至善・昇龍(360t)・蒼龍そうりゅう・飛龍(73.5)の計13隻の艦隊である。

 しかし次郎は、いきなり全艦を湾内に突入させ、ロシア側に警告を与えるという事はしなかった。

 艦隊は視認できない遠方に待機させ、まず1番小型の飛龍を先遣隊として湾内に送り、ポサドニック号艦長のロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフに対して抗議文を送ったのだ。

 幕府から全権を委任されている。外交筋で解決せず、由々しき事態になった場合は独断で行動せよ、との命令だ。




 飛龍が浅茅あそう湾に入ると、ポサドニック号の姿が目に入った。次郎は静かに艦を進め、ロシア艦に近づく。

「ロシア帝国軍艦ポサドニック号艦長、ニコライ・ビリリョフ殿へ」

 ロシア語で書かれた書簡を届け、艦上で直接交渉を試みたのだ。

 やがてビリリョフが呼びかけに応じて甲板に姿を現した。彼は飛龍の存在に若干驚いたが、日本が蒸気船を持っている事は知っている。しかし、自艦は10倍以上であり、兵装においても遙かに上であった。

「何の用だ?」

 ビリリョフは冷たくたずねたが、次郎は毅然きぜんとした態度で返答した。

「我々は日本国の正式な使者として参りました。貴艦の不法滞在について、即刻の退去を要求する正式な抗議文をお渡しいたします」

 ビリリョフは無表情で抗議文を受け取った。

「なるほど、確かに承りました。しかし我らは艦の修理のためにこの島に立ち寄っただけであり、停泊中の食料を提供していただいているだけで、もちろん対価は支払っております。また、小屋は修理のために必要な物で、なんら条約に抵触するものではありません」

 次郎は冷静に、しかし強い口調で返答する。

「ビリリョフ艦長、貴殿の言い分は理解いたしました。しかし我々の情報によれば、単なる修理や補給を超えた行動が見られます。測量や伐木、さらには宿舎や練兵場まで、これらはすべて、この地の領主である宗対馬守様の了解を得ているのでしょうか? もし了承を得られていないのであれば、これは重大な主権侵害であり領土の侵犯となりますぞ」

 ビリリョフは一瞬動揺を隠せない表情を見せたが、すぐに平静を取り戻した。

「我々の行動はすべて、艦の修理と乗組員の生活維持に必要な範囲内のものです。宿舎や練兵場と呼ばれるものも、単なる一時的な滞在施設にすぎません。領主の了解については現在交渉中ですが、そうしているうちにも艦の損傷による被害は進んでおりますので、致し方なく施設を造っているにすぎません」

 ビリリョフは言葉を濁したが、次郎はそこを見逃さなかった。

「つまり、正式な許可は得ていないということですな。それに最新の報告では、土地を借り受けたいとの申し出があったようですが、これはまさか、対馬を清国と同じようになされるおつもりか? これは明らかに条約違反であり、国際法上も認められません」

 ビリリョフは困惑した表情を浮かべたが、おおきなため息をついて開き直った。

「……はあ。だからどうしたと言うのだ。私は対馬の領主と、ロシア帝国としてではなく、帝国海軍として私的に交渉しているのだから、条約の範疇はんちゅうではない。早々にお引き取りください」

 次郎は、ビリリョフの態度の急変に驚きつつも、冷静さを保った。

「ビリリョフ艦長、貴殿の言葉は極めて重大です。ロシア帝国海軍として私的に交渉するというのは、どういう意味でしょうか。軍艦の行動が私的なものであるはずがありません。これは明らかに公的な行為であり、国家間の問題です」

 次郎は一歩踏み込んで続けた。

「さらに、仮に私的な交渉だとしても、それは日本の領土内で行われている以上、我が国の法律と主権に従わなければなりません。これは国際法の基本原則です」

 ビリリョフは顔を赤らめ、声を荒らげた。

「……ふははははは。小さな蒸気船で何を言うか。我々には本国からの命令があるのだ。簡単に退去できるわけがない」

 次郎は冷静さを崩さず、むしろ声を落として言った。

「ビリリョフ艦長、我が国は、いえ対馬の領主は喜んで貴殿等を迎え入れましたか? 警告と同じ意味で、早急に退去するよう何度も伝えたはずです。要するに度重なる警告にもかかわらず、貴国の艦艇はわが国の領土を侵し、主権を侵している。貴官は、この艦は沈められても文句は言えないのですよ!」

「できますかな? あのような小舟で」

 小舟とはもちろん、飛龍の事だ。

「……」

 次郎は考えている。どうすべきか?




「申し上げます! |只今《ただいま》報せがあり、大船越の水門を通過しようとしたロシア兵を対馬家中の兵が止めたところ、ロシア兵によって警備兵が射殺され、二名が捕らえられましてございます!」

「なんだと! ?」

 次郎は驚きのあまり立ち上がった。ここでも歴史が変わっている。その事件は10日後のはずだ。

 ロシア側はノーコメントだ。何も言わない。

「わかりました。では、日露領土主権条約に基づき、粛々と対応いたします。おい、帰るぞ」

 次郎はそう言って飛龍に戻っていった。




「父上、いえ御家老様、如何でございましたか?」

「ふん、予想通りだ。事ここにいたっては是非もなし。全艦、浅茅湾に向かう、発見次第撃沈せよ」




「な、なんだあれは!」

 ビリリョフの前に13隻からなる艦隊が現れたのだ。しかしロシア艦隊の中国海域艦隊司令官であったイワン・リハチョーフ大佐の命令がない以上、対馬を離れることはできない。

 戦力差は歴然である。

 小舟1隻と侮っていたが、間違いなく撃沈される。ビリリョフは再度の交渉で時間稼ぎをしようと考えたが、使者を送る前に、大村艦隊からの一斉射撃を受けたのだ。

 どおん、どおん、どおん……。

 耳をつんざくばかりの轟音ごうおんの後、ポサドニック号は海の藻屑もくずと消えたのであった。




 次回 第256話 (仮)『戦後処理』

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