文久元年七月七日(1861/8/12) 江戸 西応寺 駐日オランダ公使館
「デ・ウィット領事、……失礼、公使に昇任されたのでしたね」
「お久しぶりです次郎殿、お変わりないですか?」
オランダ領事のヤン・カレル・デ・ウィットとは、長崎以外で会うのはこれが初めてである。クルティウスとの密約は生きていたので、特別な外交交渉がない限りは、実務者レベルでの交流が続いていた。
次郎も大村にいるときは定期的に領事館を訪れて、友好を深めているのだ。
「船があるとは言え、江戸と長崎は遠いですね、次郎殿。どうしても公使になるにあたって江戸在勤となってしまいました」
横浜にも外国人居留地ができはじめていたが、幕府との連絡以外は長崎の方が便利であった。
「仕事ですからね。なかなか思い通りにはいきません」
2人は笑顔で挨拶しながら応接室へ向かい、ゆっくりと本題に入った。
「ロシアとの事は、驚きとともに、残念に思います」
「残念、というのはロシアの対馬上陸等の事でしょうか。それとも我が海軍がロシアの軍艦を沈めた事でしょうか」
「もちろん前者です」
デ・ウィットは即答した。それを見て次郎は笑顔をみせる。
正直なところロシアの行動は、いわゆる帝国主義の最たるものであるが、オランダをはじめとした各国は、それすなわち悪とは断言できない。
15世紀に始まった大航海時代では世界をスペインとポルトガルが二分し、オランダがポルトガルに取って代わり、イギリスがスペインに取って代わった。そして英蘭戦争を経て大英帝国が世界の覇権をにぎる。
フランスやアメリカ、ロシアも同様である。アメリカはまだ列強には入っていないが、19世紀末には世界の超大国になるのだ。
しかしもちろん、次郎はその事には全く触れない。デ・ウィットもそうだ。過去の事を今さら言っても仕方がないし、オランダはとうの昔に栄光をイギリスに奪い取られていたからだ。
日本と長年付き合いがある、というだけで安政5か国条約に名を連ねているだけで、ヨーロッパにおける列強ではない。
「我が国としては日本を全面的に支援いたします。ここだけの話、我が国もかつてのバルト海・北海の覇権を取り戻す機会となるかもしれません。事はそう簡単ではないと思いますが、イギリスとフランスをどう味方につけるかにかかってくるかと」
次郎はデ・ウィットの言葉に深くうなずいた。国際情勢の複雑さを理解しつつ、日本の立場を有利にする方策を模索する必要があるのだ。
「イギリスとフランスの協力は確かに鍵となりますね。両国の領事とも既に接触しましたが、まだ明確な態度は示していません」
デ・ウィットは表情を曇らせ、慎重に言葉を選んだ。
「両国は極東での利益を重視しています。ロシアの南下政策に警戒心を抱いているのは間違いありません。ですから、日本への支援が自国の利益につながると確信させる必要があるでしょう」
次郎は国際情勢の複雑な駆け引きを、頭の中で整理しながら口を開く。
「なるほど。イギリスには極東での力の均衡維持を、フランスには新たな経済的機会の創出を強調すべきでしょうか。両国の関心事が異なる点を利用できそうです」
「その通りです。ただし、両国の思惑の違いにも注意が必要です。イギリスとフランスの競争心を刺激し過ぎると、かえって協力が得られにくくなる恐れもあります」
デ・ウィットは顎に手を当て、熟考する様子を見せた。
「確かに微妙な均衡が求められますね。両国の利害を巧みに調整しながら、日本の立場を守る。確かに簡単ではありませんが、やらねばなりません」
「そうですね。加えて、日本の近代化への協力を約束することも効果的かもしれません。両国は技術や知識の提供に関心を持つはずです」
次郎が背筋を伸ばして真剣な表情で応じると、デ・ウィットはさらに踏み込んだ提案をした。
「その視点は重要ですね。我が国の開国と近代化は、西洋諸国にとっても大きな機会となるはずです。この点を強調することで、より積極的な支援を引き出せるかもしれませんね。具体的には……いや、やめておきましょう。これ以上ご意見をいただくのは、ははは……もらいすぎです」
「次郎殿の外交手腕なら、必ずや道は開けるでしょう。オランダとしても、できる限りの支援を惜しみません」
デ・ウィットは満足げな表情を浮かべ、次郎の理解の速さに感心した様子だった。
「しかしこれでは、あまり貴国の利益がないのではありませんか?」
「ははははは。それは心配には及びません。幕府はいずれ我が国よりも、イギリスやフランスを重要視してくるのはわかっています。幸いにして我が国は大村藩という新たな貿易相手を見つけました。前任のクルティウスとの約束は憶えておられますか?」
「もちろんです」
「それならば結構です。我が国としてはイギリスやフランスと矛を交えることなく日本での立場を維持し、大村藩との貿易で利益があれば、それで良いのですから」
実際のところ、オランダの植民地はオランダ領東インドと呼ばれるインドネシア諸島しかない。
イギリスやフランス、そしてロシアのように中国本土に植民地はなく、今後武力をもって租借もしくは割譲をさせるなど、状況的に厳しかったのだ。
オランダとしては、そのオランダ領東インドを拠点にして大村藩と貿易をして利益を得ていたのだから、そこを伸ばす方が、他に手を出すより確実なのである。
「ああそうだ。近く大村電信公社では、海底ケーブルの敷設を壱岐対馬、五島や奄美大島、それに琉球まで延ばすという計画があるそうですが、本当ですか?」
「これは耳が早い。確かに。今回の件を踏まえて、やはり情報の伝達の重要性が再認識されました。すでに調査にかかっております。関門海峡と豊予海峡、紀淡海峡は敷設が終わったので、今は陸奥と蝦夷、そして樺太と蝦夷の敷設中です」
次郎は少し驚いた顔で言うと、すぐにその意図を理解した。
「もちろん、貴国にはこれまで通りご協力いただきたく存じます」
「ありがとうございます。それから蓄音機の……」
……4か国会談に向けての打ち合わせの密談がつづく。
次回 第262話 (仮)『イギリスとフランスの思惑と攘夷の志士』

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