文久二年四月二十九日(1862/5/27)
発 次郎蔵人 宛 御大老
先日 島津三郎様 兵千ヲ率イテ上洛セリ 幕政ノ改革ヲ求メルモノナリ
次郎はそう幕府に報告しようと考えたが、止めた。よくよく考えたら次郎は幕臣ではない。それに久光は攘夷派ではないし、合議制を推進するなら考え方の方向性は次郎と同じだからだ。
「三郎様の欲する勅の中身はなんでござろうか?」
先日寺田屋にて藩命に従わない藩士を上意討ちにした久光は、朝廷から幕政改革のための勅を得て、勅使とともに江戸に向かうつもりであった。
なお、事件後次郎は、引き取り手のなかった田中河内介とその息子の田中瑳磨介、甥の千葉郁太郎、さらに中村主計、青木頼母、秋月藩士の海賀宮門を大村藩へ送っている。
「はい、事件のあとようやったと三郎殿の名声は高まっておりましゃる。奏上の内容はだいたいこないな感じどすなぁ」
1.家茂の上洛
2.薩摩・長州・土佐・仙台・加賀で構成される五大老の設置
3.一橋慶喜の将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽の政事総裁職就任
歴史通りの内容に、次郎はほっとした。この内容なら別になんも問題もない。200年以上前だが将軍の上洛は前例があるし、公武合体と大成委任論を体現するためには必要だ。
五大老の設置も、合議をする上では必要だろう。
慶喜と春嶽の要職就任も、罪は減免されているので問題はない。
ただ、後見職と総裁職の意義が少しだけ物議を醸すかもしれない。
将軍家茂は若年とはいえすでに元服(成人)し、後見職は必要がないとして義頼が罷免されたのだから、慶喜の就任の意味が不明だ。
政事総裁職にしても、現状の老中制度と大老として安藤信正がいるのだから、あえて設置する必要があるだろうか。それが唯一の次郎の心配の種であった。
「さきの寺田屋の件で、随分と三郎様の名声が上がったと聞きますが」
次郎は率直に岩倉に聞いた。
「そうどすなぁ。自身の立場を固めるためとはいえ、結果的に関白様(九条尚忠)の暗殺を防ぐ事ができましたし、都の治安を守ることになったのは確かどす。そのためお上も三郎殿をお褒めであらしゃいました」
「うべなるかな(なるほど)。それはようござった。勅は、でそうですか」
「ええ。来月には発せられ、勅使に随行ちゅう形で江戸へ立てる見通しどす」
次郎は岩倉の肯定的な発言に安心した。
■江戸城
「御大老様、毛利中将さまより書状が届きましてございます」
「見せよ」
目付の従五位下山口駿河守直毅が報告した内容の文書に、安藤信正は目を通す。
御書付を以て御尋ね下されり坂下門外の儀、誠に恐れ入り奉り候。
(ご書面にてお尋ねの坂下門外の件につきまして、誠に恐れ入り申し上げます)
一、近来の御時世、万事心得違いの挙に及ぶ者多く有候間、甚だ憂慮仕り候。就いては、この度の御門外の仕儀、わが家中にも加担いたし者有との風聞有候得共、全く以て与り知らぬ仕儀に候間、家中でも斯様な企てを相談せし様子、毛頭見聞きも仕らず候。
(近ごろの世の中、様々な心得違いの行動を取る者が出ており、大変憂慮しております。今回の門外での一件に、わが藩の家臣が関係しているとの噂があることは、まったく身に覚えがありません。水戸の浪士たちとの密談などは一切承知しておらず、また藩内でもこのような企ての相談がなされた様子は、まったく見聞きしておりません)
一、下手人の自白にてわが家中の者の名前交じり候由と雖も、これまた恐れ入り候。下手人の申し立てまさしく心得違いにて、事の真相とは存じ難く候。然りながらわが家中に疑いありと仰せ候わば、必ずやこれを明らかにし、然るべき処置を施したく存じ候。
(下手人の自白でわが家中の者の名前があがったそうですが、重ね重ね恐れ入ります。下手人の発言はまったく勘違いで、真相とは考えられません。しかしもし、わが家中に疑いがあるのならば、必ず解明し、然るべき処置をいたします)
一、この儀につき、広く調べを入れさせ候間、その結果を追って上申仕りたく存じ候。
(この件については周到に調査するので、結果は報告したいと思います)
一、この度の御門外の仕儀、家中役人共々全く与り知らぬ儀に候間。もしわが家中の連座など有之候わば、家中の不明、公儀を欺き奉り候段、誠に恐れ入る事と可相成候。
(この件は家臣全員が知らない事で、もし関与があれば家中の恥であり、公儀を欺いたこと、本当に申し訳ない事になるでしょう)
右の通り御返答申し上げ候。なにとぞ格別の御憐憫を以て、御寛大なる御裁定賜り度く、伏して御願い奉り候。
恐惶謹言
文久二年三月十二日
長州藩主 毛利左近衛権中将敬親 (花押)
御大老 安藤対馬守殿
「必死の弁明であるな」
信正は久世広周に告げた。
「然様、長州も西国の有力な家中。然りとてここで公儀を敵に回す愚は冒しますまい」
「ふふふ、では如何いたそうか」
「そうでございますな。只今は特段何もいたさぬが良いかと。下手人の自白があったとて、それだけでは弱い。強引にいけば諸藩の反発もございましょう」
「あい分かった」
信正は引き続き監視を続ける事で合意したが、薩摩や長州は不気味な存在である。大村は次郎と話している限りは幕府に対して敵対心を持っているとは思えず、親交を重ねていれば問題ないとの判断をした。
「申し上げます! 薩摩の島津三郎様の動き、わかりましてございます!」
「申せ」
書状を届けた目付の山口直毅が再び現れて久光の状況を伝えてきた。信正と広周は顔を見合わせて声を上げ、信正は確認する。
発 京都所司代 宛 御大老
島津三郎様 御上洛ノ目的判明セリ 一ツ、公方様ノ御上洛 二ツ、五大老ノ設置 三ツ、将軍後見職、政事総裁職、京都守護職ノ設置ナリ
「なに? なんじゃこれは!」
信正は怒りを露わにした。将軍の上洛は公武合体を推し進める上で納得できる。しかし、五大老と三職の設置は許されざる項目であった。
「公方様の上洛と守護職はわかる。然れど後見職は罷免したばかり、五大老と三職は、いまの政権を壊すことに他ならぬではないか! 断じて許容できぬ」
信正は渡された電信の紙を握り潰し、声を荒らげた。
「御大老様、お怒りはごもっともでございます。然れどここは一考を」
「何を言う。こやつら、公儀の政権を乗っ取ろうというのだぞ」
「然様でございますが、やりたいなら、やらせてやれば良いのです。できるものなら……」
「なに? 何か妙案でもあるのか?」
広周は微笑み、はい、と答えた。
次回予告 第279話 (仮)『久光対信正』
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