文久二年六月七日(1862/7/3)江戸城
「さて、一橋刑部卿様の将軍後見職、加えて松平春嶽殿の政事総裁職でございますが……」
信正は姿勢を正したまま、静かに続ける。
「後見職については先月、上様がすでに十七におなりになっているゆえ要なしと、権大納言様(徳川慶頼)は職を退いているではありませぬか。然らばなにゆえ、ふたたび後見職がいるのであろうか」
「それは……」
久光は言葉を選んだ。確かに先月、田安家の慶頼が後見職を解かれている。普通に考えればその直後に新たな後見職を求めることへの説明は難しい。
しかし……。
しかしこれは久光の上洛を知った安藤信正の計略であった。未成人の将軍を補佐するのが後見職であり、17歳で後見を必要としないならば解任してもよい。
すなわち一橋慶喜の後見人就任はない、と。
「然らば、有り体に申し上げてもよろしいでしょうか」
「構いませぬ」
久光の時論を聞こうではないか、と言わんばかりの信正の自信であるが、おくびにも出さない。
「先の後見職であられました権中納言様(徳川慶頼)は、正直なところ、先の大老井伊掃部頭様の傀儡と言われても仕方がない有り様にございました」
「なんと!」
「不敬ではないか!」
大老安藤信正と老中の久世広周は黙って聞いていたが、他の幕閣は口々に久光の発言を非難した。
「その心は?」
信正は言葉短く聞いた。
「然れば上様ご自身で発案、お決めになったことは皆無であり、ただただ大老であった掃部頭様の上書をそのまま鵜呑みにし、上様は命をくだしておりました。そう聞き及んでおります」
先代の13代将軍家定の奥は久光の異母兄である斉彬の娘、天璋院篤姫である。どの程度幕府の内情が薩摩に漏れていたかは不明であるが、将軍に極めて親しい人間が身内にいることは確かであった。
『おのれ……』『よくもぬけぬけと……』という言葉が聞こえそうであるが、信正は冷静に問いかける。
「つまり、先の後見役は自らの意思で上様の意思を伝え、もしくはそうできるように仕向けることはなく、ただ先の掃部頭様のいいなりであったので罷免もやむなし。元服を済ませたとは言えいまだ十七。国の御政道を正しく導くには英邁なる後見役がいると?」
「然に候」
「これはまた、ずいぶんと歯に衣着せぬ物言いでございますな。しかも時折なんと仰せなのか聞き取れぬ事が多い」
そう言って広周は笑うのを我慢している。
その笑いの原因は久光の鹿児島弁であった。
斉彬は江戸で過ごしていたため問題なかったが、久光は鹿児島で生まれ育ったため、いわゆる現在の標準語にあたる江戸弁・江戸ことばではなかった。それを広周は揶揄して言ったのだ。
久光は拳をぐっと握って我慢した。
「それならば罷免はなにゆえ今だったのでしょうか。某の参府にあわせて、急に罷免されたようにも見受けられますが」
「ふふふ……。それはいらぬ勘ぐりというものにござるよ、三郎殿」
沈黙が訪れた。
「まあ、それは良いでしょう。仮に後見職を置くとして、刑部卿様を推されるとの事、これも良いでしょう。さて、問題となるのは政事総裁職にございますな。この政事総裁職なるお役目は、いったい何をするお役目にござろうか」
信正はその仕事が大老である自分と同じ事を理解した上で、あえて聞いたのである。
「政事総裁職とは」
久光は言葉を選びながら続けた。
「松平春嶽様には、その御手腕をもって幕政の立て直しを……」
「ほう」
信正の声が冷たく響く。
「つまりは、某の役目と同じことを仰るのでしょうな。大老の職掌は、将軍の意を体して幕政を取り仕切ること。総裁職とやらは、まさにそれと同じではありませぬか」
久光は黙った。その通りであった。政事総裁職は実質的に大老と同等の権限を持つことになる。
「船頭多くて船山に上る、と申します。後見職がおり五大老、いや某も入れると六大老にございますが、加えて政事総裁職もとなれば、政権が混乱いたしませぬか」
「いえ」
久光は即座に否定した。
「こたびの上書は御公儀のお考えを聞く前の仕組みにて、政事総裁職は大老衆の上にございまして、御大老様が仰せの筆頭大老と同じ立場となり、五大老の意見を取りまとめる役目にございます」
「ほう」
信正の声が一段と冷たくなる。
「では某は、いらぬと仰せか?」
久光は息をのんだ。言葉の選び方を誤った。現職の大老である信正をすげ替えて春嶽を置くという発言は、明らかに挑発的すぎる。
「それは……」
「まあ、よろしいでしょう。朝廷からの勅もあることゆえ、無視する事は公武合体の意義に反します。上洛も五大老も、政事総裁職も後見職も、よしとして、それがしの立場を明らかにせねばなりませぬ」
信正はニコニコ笑顔である。腹案があるのだろうか。
「三郎殿」
信正はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「今の上書のままでは、それがしの権限は何ひとつ定まっておりませぬ。これでは公儀の政務に支障を来たしかねません」
久光は黙ってうなずいた。確かにその通りである。
「それゆえ、ここで明らかにいたしたく」
信正は姿勢を正して続けた。
「政事総裁職は大老の上、確かにその通り。ただし、それがしは筆頭大老として五大老をまとめ、その上で政事総裁職と協議をする。これが順序というものでは」
「それは……」
久光は考え込んでいる。
「つまりは」
広周が口を開いた。
「政事総裁――筆頭大老――五大老という序列でございますな」
「然に候。これなら船頭問題も解決いたしましょう。いかがでござろうか」
信正の発言に久光は黙ってしまった。こうなれば最初に描いていた幕政改革とは全く違う。譜代の権力が強いままなのだ。
「加えて公議輿論まことに結構。それがしも同意にござる。ゆえにそれがし、五大老や後見職、総裁職の意向に反対ばかりする訳ではござりませぬ。ただ一つ、これまでの老中の中にあった大老の権の一つ、すべてのお役目の推任と罷免の権はそのままにいたしたい。なに、落ち度もないのに無理矢理罷免するような事はござらぬゆえ、ご安心めされよ」
久光の顔が強張る。
後見職や総裁職も含めたすべての役職の推任と罷免の権限を握られては、譜代官僚機構に手をつけることはできない。しかも『落ち度もないのに無理矢理罷免するような事はございませぬ』という言葉は、久光の真意を見透かしたかのようだ。
「いかがかな? 公儀としてはすべての求めに応じますぞ。この上で得心できぬとは、よもや言いますまいな?」
次回予告 第281話 『文久の改革と土佐尊皇党』
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