文久二年七月三日(1862/7/29)江戸城
島津久光はその条件をのんで勅を実行させるほかなかった。
安藤信正の発言は正論であり、それを退ける正当な理由がなかったのだ。信正の人事権や大老の序列と役割、大老院と老中院の設置など、役職に外様と親藩が加わっただけで、実質は譜代の権力が強い。
文久の改革は初手からつまずいたのだ。
それでも人事の改革は久光の思惑通り進み、京都守護職を設置して会津藩主の松平容保をその座に就けた。
「して、三郎殿。人事の案の他に、改革の案があるのではございませぬか?」
信正は久光に聞いた。
「は。然れば先だってお渡しいたしました二十四の幕政改革案の内、以下に述べるものからまずは諮りたく存じます」
参勤交代の緩和: 3年に1度、江戸在留100日、妻子帰国許可。
洋学研究の推進: 蕃書調所を洋書調所に改称、榎本武揚・西周らのオランダ留学。
軍事改革: 幕府陸軍設置、西洋式兵制導入、兵賦令発布。
服制改革: 長熨斗・長袴廃止。
「ふむ。参勤交代の緩和、とな」
信正は久世広周に目配せをする。広周もまた、同じ考えであった。
「三郎(島津久光)殿、緩和と仰せだが、すでに西国の佐賀・福岡(秋月・筑前)・対馬・熊本・小倉・平戸・鹿児島・萩・久留米・柳川・島原・唐津・大村・五島の家中は参勤を免じておりますぞ。それに大老に就く土佐・加賀・仙台、加えて総裁職の福井を入れたら、これでよろしいのではないかな?」
「然に候わず(そうではありません)」
久光は即座に首を振った。
「いま述べましたのは、あくまで臨時の措置。それがしが申し上げているのは、制度そのものの改革でございます」
「制度の改革?」
広周の問いに久光が答える。
「今の世では、諸外国に対処するための軍備の充実が急務。各家中が西洋式の軍備を整えるためには、経費の節減が必要かと」
「うべなるかな(なるほど)。恒久的な制度として、ということですな」
「然に候(そうです)。しかして浮いた経費を、軍備の充実に……」
「その軍備が公儀に向かわぬと断言できますかな?」
黙して聞いていた安藤信正が口を開いた。
「それは……それを言われては身も蓋もありませぬ」
久光の言葉はそのままである。危険性がないとはいえない。
「……まあ良いでしょう。協議は要るかと存じますが、廃止ではなく緩和ならば、上様にまみえる事を廃するわけではない。お許しも出るやもしれませぬ。然れど妻子の帰国を許すならば、これにより参勤が滞れば、すなわち謀反と言われても致し方ござらぬが、よろしいか」
「承知いたしました。心得ておきます」
「その他の題目はすでに公儀で行っておる事であるしの」
「まったくです」
信正の発言に広周も同意する。すでに幕府では洋書調所に改称済であり、留学を視野に入れて人選に入っていた。その前段階で大村への遊学は必須である。
軍制改革に関しては久光が参府の際に目にした通りであり、服制改革も同様であった。
参府途上二於テ、既に某ノ行列、騎馬ノ外国人ニ遭遇セリ。然ルニ狭隘ナル東海道ニ於テ、行列ノ通行ニ構ハズ、横ニ並ビ広ク場所ヲ取リ、不作法ノ儀見受ケラレ候間、少々ノ事ニハ目ヲ瞑レト、家中の者に達シ置キ候得共、先方ニ目ニ余ル無礼アルニ於テハ、ソノママニ致シ置ク訳ニモ参ラズ候。各国公使ヘ不作法慎シム様、達シ被下度候。島津三郎久光。
(江戸に来る途中ですでに騎馬に乗った外国人に遭遇しました。狭い東海道にもかかわらず、行列を気にせず横並びで場所をとって無作法だったので、多少の事は黙認しろと家臣にも言ったが、あまりに無礼なら放置はできない。各国の公使に礼儀をわきまえるよう伝えてください) 島津三郎久光。
右様(これまで述べられた)ノ達シハ既ニ致シ置キ候得共、言葉相通ゼズ、習慣モ異ナレバ、何卒御辛抱ノ上、穏便ニ御仕舞イ被下度候。
(仰った事はすでに通達していますが、言葉も通じず習慣も違うので、どうか我慢して穏便に済ませてください)
■高知城城下
文久二年四月八日(1862年5月6日)を過ぎても、参政の吉田東洋は暗殺されていなかった。土佐勤王党の盟主であるはずの武市半平太が、岡田以蔵と他数名を率いて大村に遊学していたからだ。
武市瑞山率いる一同は、大村で学ぶ同郷の坂本龍馬や城代家老の冨永鷲之助の影響を受け、その近代的な現状をみて攘夷が不可能であり、実力・国力を備えてからの大攘夷を唱えるようになった。
対馬事変でいったんは攘夷の可能性も見えたが、ロシア艦1隻に対して大村藩の軍艦11隻の攻撃で成功しただけなのだ。単純な兵力の差を彼我で考えれば、無理であることに変わりはない。
そしてその撃沈に至った経緯も知った。単純な攘夷で沈めたわけではない。
土佐に戻った一同は決意を新たにした。
「しかと見てまいりました」
武市は藩主山内容堂と参政吉田東洋を前に、平伏しながら答えた。
「武市よ、面を上げよ、許す」
武市瑞山は恐れ多くも、という感じで上半身を起こす。
「して、いかがであった?」
容堂の心をくみ取ったかのような東洋の問いかけに、武市は答える。
「大村家中は西洋式軍艦、すべて蒸気船にございますが、十一隻を持っております。さらに大型の船もオランダより届くとか。加えて技術も文化も全てが……西洋のそれを取り入れております」
「ふむ」
東洋は容堂の顔をみている。表情は変えないが、容堂は真剣だ。
「さきの対馬におけるロシアの横暴についてはいかがか?」
「然ればあの儀は単なる攘夷に非ず、ロシアが非道の行いを対馬にて行った故、沈めるにいたったと聞きおよびます」
「ほう。では大村単独で攘夷がなせる、という事ではないのか?」
東洋の質問は続く。
「然に候わず(そうではありません)。御家中の六位蔵人様(太田和次郎左衛門)が仰せになるには、あれはただ一隻のみにてなし得た事、ロシアに対して戦をしかけて成せるという事に非ず、非道な行いをしたロシアに対して国際法なる法律によって行ったようにございます」
「では武市よ」
そう言って今まで黙っていた容堂が口を開いた。
「このさき我が家中はなんとする? 大村より学ぶべくは学んでおるが、家中としてはいかなる思想をもって為すべきか」
「遠慮するでない、思うところがあれば申せ」
東洋が後押しする。
その言葉に武市は感激で震えそうだ。雲の上の吉田東洋と、そのまた上の容堂にまで、藩の政道の事を尋ねられているのだ。白札の瑞山にとっては感無量以外のなにものでもない。
「……は、然らば家中の論を尊王、そして大攘夷とし、公儀とともに歩むことかと存じます。薩摩の島津三郎様は、上洛の後江戸へ改革を求めに参府したと聞き及んでおりますが、わが家中もそれに倣い、|後《おく》れをとらぬようにせねばならぬかと」
「大攘夷とは……むやみに攘夷をするのではなく、学べるところは学んで国を強くし、然る後に異国と対等につきあい、害あれば排すという考えか。つぶさに申せ」
「は。それがしと志を同じくする者多く、尊王の党を作りて京に上り、家中の顔となり手足となりて不逞の輩より朝廷をお守りいたします。然すれば公儀に意見しこの国を正しく導く事も能うかとと存じます」
「……あい分かった。では東洋、そのように良きに計らえ」
「はは」
■イギリス公使館
「なかなか日本は手強い。上手いこといきませんね」
「なに、行かなければ行くように仕向ければいいだけのこと。あとはそういう考えでお願いしますよ」
駐日イギリス代理公使のエドワード・セント・ジョン・ニールは、賜暇で帰国したラザフォード・オールコックとの会話を思い出していた。
次回予告 第282話 『生麦事件』
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