文久二年七月二十一日(1862年8月16日)
イギリスの狙いは薩摩藩ではなく、幕府の弱体化と各藩の対立であった。事件は日本全体の混乱を狙ったもので、薩摩藩は標的ではなかったが、結果的に巻き込まれたのだ。
日本は国際法に則ってヒュースケンの殺害未遂事件では賠償をし、対馬でのロシアの占領事件においても毅然とした態度でロシアから謝罪と賠償金を引き出した。
しかし、この状況で今イギリス人が殺傷されれば、日本の立場は悪くなるどころか、対馬事件で構築した信頼が失墜する。軍事力を使わずにどうやってそれを実現するか?
個人的に浪士が襲ったのではなく、大名もしくはそれに準ずる立場の者の管理下で、公然と事件がおきる。
こうなれば日本は言い逃れができない。
イギリスはそのチャンスを狙っていたのだ。薩摩藩の大名行列でなければならない理由はなかった。日本国内の混乱を誘発することで、幕府の権威を失墜させ、列強による介入の口実を作り出そうとしたのだ。
この事件の当事国として、日本における列強間の主導権争いにおける優位性の確保をするためである。
■理化学研究所
次郎は昼過ぎから新式の機銃と大砲について、村田蔵六と田中儀右衛門の二人から現場を視察しながらの説明を受けていた。
「では、実物を見せてもらおう」
次郎は二人に促され、試験場へと足を向けた。
「まずは二十二式機銃でございます」
村田蔵六(大村益次郎)が台座に据え付けられた機銃を指し示す。
「58口径14.7ミリの金属薬莢を使用します。薬莢の実用化により、連続射撃の信頼性はすでに小銃で証明されています」
次郎は機構部分を細かく観察する。
「発射の仕組みは?」
「この後部のクランクを回すことで装填室に薬莢が送り込まれ、一発ずつ発射されます。くさび形のブロックが立ち上がって適切な位置で固定し、カム駆動のハンマーが撃発する仕組みでございます」
「冷却は?」
「銃身にジャケットを被せ、クランク回転で生じるタービンの気流で冷やします。発射速度は毎分120発。それでも過熱対策として、予備の銃身を2本用意しております」
次郎は前面の鋼鉄製の防盾に手を触れた。
「これは?」
「標準装備の防盾でございます。実戦を想定した装備です」
「うべなるかな(なるほど)」
次郎は蔵六の説明にうなずきながら眺める。予想していたガトリング機銃とは違うが、現時点で機関銃の有無は大きい。
「御家老様、なにか気にかかる事でも?」
「いや、なんでもない。ただオレが考えていたものとは少し違っておったのでな」
「それはどういう……」
「なんというか、この複数の銃身が束となってだな……」
「なんと! そういう考えもありましたか! これは……一考の余地ありでございますな」
蔵六は次郎から聞いたガトリング機銃の仕組みに思考を巡らせたが、次郎はアームストロング砲の方を見たかったので先を促した。
「これは二十二式後装砲にございます」
今度は田中久重が和製アームストロング砲(二十二式後装砲)の説明に入る。
「最大の特徴は製造法にございます。従来の鋳造製と異なり、中子の周りに砲身を組み立てていく方式を採用しました」
「つぶさ(具体的)には?」
「鋼鉄製の中子を内側表面として、その外側から可鍛鉄の帯を巻きつけ、さらに短い円筒を前後に並べて構成します。この方式により、外側の帯が内側の層を締め付け、従来の鋳造砲より軽量でありながら強靭な砲身が実現できました」
次郎は後部の閉鎖機構を注意深く観察する。
「閉鎖機は?」
戦国時代のフランキ砲からの問題だったが、閉鎖機の密閉度や強度は飛距離に影響するのだ。
「螺栓式を改良した隔螺式を採用しております。装填から発射までの時間短縮に成功し、実戦での運用性が大幅に向上しました」
久重は弾薬を手に取る。
「砲弾前部には潤滑器を装着。発射時に潤滑油が搾り出され、内腔を自動的に掃除する仕組みも組み込んでおります」
次郎はそれを聞いてニヤリと笑う。
「威力は?」
「着発信管を装着した榴弾は破壊力が特に高く……」
その時、電信係が駆け込んできた。
「申し上げます! 江戸屋敷より緊急電にございます!」
発 横浜電信所長 宛 六位蔵人(敬称略)
神奈川奉行所ヨリ報告。生麦村ニテ正午過ギ、島津三郎様一行ト外国人接触。不審者発砲ニヨリ混乱。外国人負傷。医師対応中。詳細追ッテ報告
■横浜診療所
「急げ急げ急げ!」
横浜診療所に設けられた手術室で、院長の指示の下で医師たちがめまぐるしく動いていた。
「リチャードソン氏の出血が酷い! 肩口から腹部にかけての創傷、大量出血です!」
「血圧が下がっています!」
世界初の血圧計は、1896年にイタリアの医師リバ・ロッチによって発明されたのだが、この世界では理化学研究所と医学方の協力で、同じ水銀血圧計が発明されていた。
「直ちに輸血を開始します!」
担当医が叫ぶ。すでに血液型の判定は済んでいた。
「A型、適合確認!」
手術台の周りで医師たちが手際よく動く。創傷の処置と並行して、輸血の準備が進められていく。
「マーシャル氏とクラーク氏の容態は?」
「深手ですが致命傷ではありません。すでに止血処置を施しています」
「ボロデール夫人は?」
「帽子と髪を損傷しただけです。精神的なショックはありますが、身体的には問題ありません」
院長の問いかけに治療に当たったそれぞれの担当医師が報告した。
リチャードソンの手術に当たる副院長が、手を動かしながら言う。
「肩口から入った傷と腹部の傷はどちらも深いですが、すぐに治療を始められたのが功を奏しました」
日本の立場を危うくしないためにも、なんとしても命だけは取り留めねばならない。次郎が医師団をこの場所に配置していた意図は、まさにこのためだった。
処置を続けながら、副院長は考えを巡らせるが、日本がどうこうと言うよりも、目の前の命が助かってホッとしていた。
「脈、安定してきました」
「よし、出血も抑えられている」
時間との戦いだったが、その時を凌げそうだ。あとは術後の経過を見守るだけである。
「マーシャル氏とクラーク氏も、止血完了しました」
医師たちの表情が僅かに緩む。全員の命が助かりそうだ。これで最悪の事態だけは避けられた。
「報告を」
院長の質問にリチャードソンを治療した副院長が答える。
「はい。リチャードソン氏、重傷ながら容態安定。マーシャル氏、クラーク氏も同様です。ボロデール夫人は軽傷」
死者を出さなかったことは、外交上極めて重要な意味を持つ。
■江戸城
「な! ……なんじゃとっ! ? それは真か?」
次回予告 第284話 『次郎再び江戸へ』
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