第284話 『次郎再び江戸へ』

 文久二年七月二十八日(1862年8月23日)
 
 発 六位蔵人(次郎) 宛 御大老様

 生麦デノ儀ニツキ、急ギ参府イタシタク存ジ候。英吉利カラノ問ヒニツイテハ、先ズ以テ謝罪ト真相ノ解明ガ要ルカト存ジ候




 ■横浜診療所

 一命をとりとめたリチャードソンと他の被害者を治療している診療所には、事件の報告を聞いた聞いた長与俊之助(専斎)が本院の江戸病院からやってきていた。

「容態はどうですか?」

 俊之助は執刀医に尋ねた。

「リチャードソン氏は峠は越えました。ただ、予断を許さない状況です。マーシャル氏とクラーク氏も合併症もなく、順調です」

 執刀医は神妙な面持ちで答えた。

「そうか……」

 俊之助は患者の顔を見ながら考え込む。医学の進歩は目覚ましいものがあったが、輸血にしてもペニシリンにしても症例がまだまだ少なく、完全ではないと師匠である一之進に言われていたからだ。

「先生、何かできることはないでしょうか?」

 付き添いの医師が俊之助に尋ねる。

「できることはすべてやっている。あとは患者の生命力に賭けるしかない」

 俊之助は静かに答えた。転生者である一之進から西洋医学の知識を学び、大村藩、ひいては日本の医学の発展を牽引けんいんしていく事になる彼にとっても、この状況は歯痒はがゆかった。




『医者は神ではない』




 師である一之進が常に言っている事である。医者は患者を救うことを考え、最善をつくすのみだ、と。

「Excuse me, are you in charge here? (失礼、あなたがここの責任者ですか?)」

「Yes, but what about you? (そうですが、あなたは?)」

「My name is James Curtis Hebon, a physician attached to the American legation.(アメリカ公使館付きの医師で、ジェームス・カーティス・ヘボンと申します)」

 なんと、史実でウッドソープ・チャールズ・クラーク、ウィリアム・マーシャルの治療を行った医師であった。ここに次郎がいれば驚いただろうが、俊之助はそんな事は知らない。

「そうですか、てっきりイギリス公使館の方かと思いましたが、違いましたね」

 事件は神奈川奉行所に久光によって報告され、そこから幕府に知らされた後、公使館に連絡するよう命令されてようやくイギリス公使館の知る事となった。

 現代であれば同様の事件があった際、間違いなく該当国の在外公館へ知らせるべき事柄だが、連絡が遅れていたのだ。

 すぐにイギリス公使館付きの医師がきて引き渡しを求めたが、どう考えても動かせる状態ではなく、それに客観的な設備を比べてみても、ここで治療した方がいいのは一目瞭然であった。

「それで、なんでしょうか?」

 俊之助はヘボンの意図がわからず聞いた。

「……いや、素晴らしい」

「はい?」

 思わず聞き返す俊之助。

「清潔な建物に整えられた設備、それに何より、輸血においては我が国においても研究がなされているが、ここまで完璧なものではない。また、術後の別の発病を防ぐために『ペニシリン』なるものを使っていると聞きました。ぜひその何たるかをご教授願いたい」

 弱冠25歳の俊之助にとっては親にも近い年齢のヘボンにそう言われ、断るわけにはいかない。俊之助はヘボンの見学を許し、リチャードソン達の容態を見守ったのである。




 ■江戸城

「大村丹後守にございます」

「太田和六位蔵人にございます」

 挨拶を済ませた次郎はさっそく本題に入った。

 今回は島津久光もからむ事から、次郎は自分だけでは力不足だと思ったのだろう。久光が従四位下左近衛権少将に叙任されるなら、同じ従四位下の純顕がいた方がやりやすい。

 同じ官位なら、早く叙位された方が上だ。そういう意味では従四位下に叙位されても、息子の忠義より下になる。

「これは丹後守殿……がお越しになるとは、蔵人よ、かたし儀であろうか」

 安藤信正と純顕は同じ従四位下だ。しかし純顕の方が早く叙位しているので上となる。

「……は、まかり間違えば、戦になり申す」

 戦と聞いて幕閣は騒然となるが、次郎は言葉を続けた。

此度こたびの生麦での一件、先頃のアメリカの通訳ヒュースケンの襲撃とは、まったく違います」

如何いかなる事だ?」

 純顕がうなずくのを確認して、次郎は発言する。

「まず前回は、単なる不逞ふていの浪士の仕業にございました。然れど此度は違います。この日本の有力な領主の薩摩守様、その国父たる三郎様の行列において、その管理下においてイギリス人が襲われたのでございます。幸い命は取り留めたものの、イギリスからは強硬な謝罪と賠償請求がくるでしょう」

らば如何なる対応を」

 信正が前のめりになった。

「まずは当事者がおらねば如何いかんともしがたいかと存じます。三郎様は何処いずこに? 城へお越しいただきますよう、お願いいただけませぬか」

 次郎は一呼吸置いて続けた。

「三郎様にも当然のことながら言い分があろうかと存じます。それを考えずにイギリス側とばかり交渉しては、この先の御政道を難きものと成すかと存じます。理由の如何を問わず、まずは負傷した者らに謝罪し、こちらに他意はなく偶発的な事故であった事と報せるべきかと存じます。加えて死者がでなかったのは不幸中の幸い」

「うべなるかな(なるほど)」

 純顕が顎をさすった。

「確かに、死者が出なかったことは幸いだ」

「さようでございます。現在、横浜診療所ではヘボン博士も治療の様子を見学しており、迅速な対応とその技術の高さに驚嘆しておられます。事故が起きたとはいえ、これは外交交渉において、我が国の誠意を示す重要な証となりましょう」




 ■江戸 大村藩邸への帰路

「次郎よ」

「はは」

「なにやらうかない顔をしておるの。如何した」

「は……実は奇妙な話を聞きまして。診療所の者から聞いたのですが、実は傷を負った三名の他、銃を撃った二名が逃げおおせたというのです。四人の警護の者であれば応戦するでしょうし、三人が傷を負っているのに、威嚇だけで逃げたというのが、どうにも解せませぬ」




「何? ……これは何やら、よからぬ謀があるのやもしれぬな」

「はは」




 次回予告 第285話 『虚々実々』

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