第286話 『横浜、イギリス領事館にて』

 文久二年八月十二日(1862年9月5日) 横浜 イギリス公使館

「駐日イギリス代理公使のエドワード・セント・ジョン・ニールです」

「大老、安藤対馬守(信正)にござる」

「太田和六位蔵人次郎左衛門にございます」

 オオタワ……? とニールはつぶやいた。

「お噂はかねがね伺っております」

 良い噂なのか悪い噂なのか、次郎は考えたが、イギリスにとって悪い噂であるだろう事は容易に想像できた。

「お噂とは、どのようなものでしょうか」

 次郎は穏やかに尋ねた。表情からは何も読み取れないように努める。

「オールコック公使からの引継ぎの際に、『タフネゴシエイター』だと」

 ニールは微笑んだ。しかしこちらも笑顔の下を見透かされまいとしている。

「恐れ入ります」

 と次郎は軽く頭を下げる。

「オールコック殿とは、実りある議論を重ねさせていただきました」

 信正は大村藩から派遣された通訳を横に置いて、二人のやりとりを聞いていた。まるで剣客同士の間合いの取り方のようだ。言葉という刃を交えながら、互いの力量を探り合っている。

「さて」

 ニールが姿勢を正した。

「生麦での殺人事件について、お話させていただきたい」

「失礼、殺人ではなく、傷害でござる。ここは大きな違いにて、はっきりいたしたい」

 信正が即座に訂正すると、ニールも応じる。

「承知しました。確かに一命をとりとめ、今は横浜にある貴国の診療所で療養中との事。その上で正式な謝罪と犯人の引き渡し、そして賠償金の支払いに応じていただきたい」

 賠償金については通例であれば本国の訓令をもって対処すべきであったが、自国民が浪士ではなく、大名の管理下にある状態で被害にあった重大事件のために、全権として交渉することにしたのだ。

「それは拙速に過ぎませぬか」

 次郎が静かに言葉を挟んだ。

「まずは双方の認識を擦り合わせるべきかと。生麦での一件、我々の把握している事実関係をお伝えしてもよろしいでしょうか」

 ニールは一瞬躊躇ちゅうちょしたように見えたが、すぐに表情を整えてうなずく。

「構いません。ところで、Mr.オオタワ、あなたが全権でしょうか? それともさきほど紹介されたMr.アンドウですか」

「それがしが全権にござる」

 信正が答えたが、次郎はニールの意図を察した。自分の存在を確認し、交渉相手としての立場を明確にさせようとしているのだ。

「然れど太田次郎左衛門殿は外国奉行として、この件に関する実務を取り仕切っております」

 次郎は『?』と思ったが笑顔のままだ。外国奉行はいわば外務大臣級ではあるが、当然就任していない。事案毎の担当者、責任者と思わせておけばよいと思ったのだろう。

 事実外国奉行は同時期に複数人存在する。外務大臣が複数いる国などはないからだ。




 ニールはうなずきながらも、その目は次郎を値踏みするように見つめていた。

「では、Mr.オオタワ。先ほどの『事実関係』についてお聞かせください」

「はい」

 次郎は落ち着いた声で語り始めた。

「島津少将様(久光)の行列に対し、イギリス人四名が接近。再三の制止を無視し、さらに近づいてきた。その際、銃声がありました」

「銃声?」

 ニールの声が僅かに上ずった。

「そのような報告は受けていませんが」

 知っているはずである。知らないはずがない。次郎はそう思った。

「逃亡した二名が発砲したと、目撃者が証言しております」

「では、なぜ彼らは逃げたのでしょう?」

「それこそが、我々も知りたいところです」

 次郎は穏やかに返した。

「彼らの所在をご存知ないでしょうか」

「知るわけがありません」

 会議室に重い沈黙が流れた。相変わらずニールは表情をかえない。

「それよりも、です」

 ニールが話題を変えた。

「今回の行列の件、こちらには一切通知がありませんでしたが、他の公使館にも問い合わせたところ、同じく通知はなかったとのこと。これは一体どういう事でしょうか? 前回の京都よりの勅使の行列は通達がありましたが」

「それは……勅使は高貴であるが、大名は幕府の管理下にあるので通達の必要はなく……」

「安藤様」

 次郎が首を振って信正を遮ぎる。

(ここで言い訳をしたところで論破されてしまいます。ならばその件は謝罪して相手の心証を悪くしないようにしなければ)と暗に伝えた。

「その件に関してはこちらの不手際にございます。以降は留意して通知いたします」

「……良いでしょう。しかしこの件は、今後貴国と我が国の関係において影響を及ぼすかもしれません。さて、その二人の所在は知るよしもありませんが、どうしたいのですか?」

 ニールはまったく動じる事なく続けた。

「事件の本質を明らかにしたいのです」

 次郎は穏やかに答えた。

「二人は発砲後、即座に逃げました。通常偶発的な事故であれば、その場で説明、もしくはさらに危険があれば威嚇ではなく実際に人に向けて撃つはずです。しかし彼らはそうしなかった」

「Mr.オオタワ」

 ニールが遮った。
 
「仮説を述べられても、証拠がない以上意味がありません。重要な事はそこではなく、我が国民が貴国民、とくに幕府の統制下にあるという薩摩の島津の行列から攻撃された、という事なのです」

「では、もう一度整理いたしましょう」

 次郎は一切の感情を見せずに続けた。
 
「まず、四人が行列に接近。制止を無視。その後、別の二人が発砲。残りの三人は重傷を負う。発砲した二人は逃亡。これが事実関係です」

「そして我々の国民が重傷を負った。これも事実です」

「はい。しかし」

 次郎は意図的に間を置いた。
 
「なぜ二人は逃げたのでしょう。なぜ発砲し、なぜその場で説明しなかったのでしょう」

「失礼、英語が得意だと聞いていましたが、どうやらヒアリングに問題があるようですね。その二人と、我が国の被害、一体何の関係があるのですか?」

「それは分かりません」

 ニールの声に僅かな苛立ちが混じった。
 
「我々は被害者なのです。にもかかわらず、あなたは加害者の立場で……」

「違います」

 次郎は静かに、しかし強い口調で言った。
 
「我々は真実を知りたいのです。この事件の背後にある真の意図を」

「馬鹿馬鹿しい! 真の意図とは誰の意図だというんだ? スピーキングにも問題がある! 本国にはこう伝えます。日本は謝罪もしない、賠償もしない、戦争も辞さないのだろう、と」

「お待ちください!」

 信正がそう言って通訳が話そうとした瞬間に、次郎が静かに手を上げて制した。

「公使殿」

 信正に一礼して発した次郎の声は、驚くほど穏やかだった。
 
「私の英語力をお笑いになるのは結構です。ただし、本国への報告は正確にしていただきたい」

 ニールは僅かに表情を強張らせた。

「我々は謝罪も賠償も拒否してはおりません。ただ、事件の全容を明らかにしたいと申し上げているだけです」

「全容とは何です。我が国民が傷つけられた。これ以上の事実が必要ですか」

「はい、必要です」

 次郎はゆっくりと言葉を紡いだ。
 
「なぜなら、この事件が偶発的なものではないと考えているからです」

「何を言おうというのです」

「発砲した二人は上海に向かったそうですね」

 会議室に、凍てつくような沈黙が流れた。

「ほう……そうなのですか。それは初耳です」




 次郎はいったいどこまで調べたのだろうか。そしてニールはどう交渉を運ぶつもりなのだろうか?




 次回予告 第287話 『生麦事件交渉-2-』

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