元亀元年 八月末
史実における信長包囲網は3回に分けて展開されるが、そのうちの第一次が終了した。しかも小佐々純正の存在が、その参加勢力との戦いの推移に大きく影響を及ぼしたのだ。
まず第一に、純正の助言を受けた浅井長政が勢力を拡張し、信長を裏切らずに朝倉と縁を切って、若狭の守護代になっている。
これにより金ケ崎の退き口は発生せず、当然姉川の合戦も起こらない。
長政は石高こそ越前の朝倉義景より少ないものの、小浜の権益を手に入れたことにより、純正や信長と同じように傭兵を雇う資金が生まれたのだ。
完全ではないが、農繁期を気にすることなく軍事行動がとれる。
第二に、六角承禎がすでに服属していたので、野洲河原の戦いも生じない。
志賀の陣も発生せず、延暦寺が浅井朝倉勢をかくまう事もなかったのだ。信長の弟である織田信治や、森可成も死んでいない。
そのため延暦寺は反信長となったものの、焼き討ちは免れている。
そのおかげで信長は、摂津に上陸した三好勢との戦い(野田福島城の戦い)に集中できたのだが、突如石山本願寺が参戦し、長島一向一揆を扇動して信長を苦しめたのだ。
しかし、小佐々が三好をせめて四国を手中に収めたため和議となり、包囲網は瓦解した。史実であれば年末まで続くはずのものが、わずか二ヶ月で終了したのだ。
翌年に再び構築される第二次包囲網だが、この世界では起こりそうもなかった。
摂津、和泉、河内の勢力は両陣営にわかれて小競り合いをするのだが、三好の勢力は弱体化している。
三好の勢力は織田陣営である若江の三好義継と、阿波の三好長治に分かれていたのが、さらに摂津と阿波に分裂して小佐々に降伏したのだ。
攻勢にでるどころか、阿波三好は純正に服属し、摂津三好は封じ込められた。
また、織田の背後には同盟国の小佐々が控えている。衰えたとは言え織田につぐ勢力であった三好を降し、阿波にあっていつでも軍を動かすことができるのだ。
誰もうかつに織田を攻めるなど出来ない。
その情勢を見て、今までは反織田ではなかったものの、日和見を決め込んでいた丹波の波多野や、但馬の山名は徐々に織田よりの姿勢を見せ始めた。
畿内の情勢は、再び織田に傾いてきたのだ。摂津、丹波を境に東は織田、西は小佐々の勢力図ができつつあった。
そして、つかの間の平穏が破られたのは、八月(旧暦)の稲の刈り入れが終わってからである。
信長は伊勢長島一向一揆を制圧するために、5万の大軍をもって侵攻した。
一昨年の永禄十一年十一月に研究と開発を始めた大砲はすでに実用化してあり、南伊勢の北畠攻めでも大いに役だったのだ。
また、試行錯誤の末、その大砲を積載した軍艦が完成していたのである。信長はそれを使って、長島へ桑名方面から海路で兵糧矢弾を輸送する船団を攻撃した。
信長が船大工によって建造させ、志摩の九鬼嘉隆によって航行訓練された織田水軍初の洋式帆船は、純正が最初期に作らせたキャラック船と同じであった。
しかし、ポルトガル人の海軍士官もいなければ、造船技術者もいない。
図面があったとはいえまったくのゼロから作り出し、航行して運用できるまでこぎつけた事は、まさに驚嘆すべき事実である。
携わった人々は称賛に値すると言えるだろう。
全長23.5m。帆装は3本のマストに横帆と縦帆を組み合わせ、バウスプリットにスプリットセイルを備えている。
織田の伊勢長島侵攻軍は、陸からは東の市江口、西の賀鳥口、中央の早尾口と三方から包囲し、海からは九鬼嘉隆などが海上封鎖と攻撃のために配置された。
九鬼嘉隆はその新造洋式軍艦と安宅船をはじめとして、伊勢大湊で徴用した船もあわせて大船団を形成した。
蟹江や荒子、熱田や大高といった尾張全域から集められた兵を乗せて一揆勢を攻め立てたのだ。
また、織田信雄も伊勢から集められた兵を大船に乗せて到着し、長島を囲む大河は織田軍の軍船で埋め尽くされた。
海上も封鎖され、陸上では四方から包囲攻撃するという織田軍の猛攻を受けた一揆軍の砦は、次々と落とされた。
最期には一揆衆は長島をはじめとした5つの城に逃げ込んで、抵抗を続けたようだ。
信長はその5つの城に対して兵糧攻めを行い、降伏を許さず、一揆衆を殲滅した。
一連の軍事行動の結果、本来であれば(史実であれば)終結するまで四年を要した三度の侵攻が、わずか一度の侵攻で終わったのである。
それほどまでに、純正が織田家と畿内に及ぼした影響は大きかった。ちなみに軍艦の図面に関しては、善意の第三者? として純正は、黙認した。
旧型艦だったという事もあり、しかも信長が直接盗んだ訳ではない。
殺されるとわかっていれば逃げる他にないし、庇護を求めるなら材料がいる。それに純正が知ったときには、すでに新型大型艦の建造が始まっていたのだ。
一方、北に目を向ければ、長政が動いていた。朝廷と幕府に対する工作は万全で、丹後の領民救済という名目で軍を派遣したのだ。
背後の朝倉が気になるところではあったが、朝倉義景は加賀の一向一揆が気になって兵を起こすことができない。
敵の敵は味方、とはよく言ったものだ。
しかし今まで殺し合いをしてきた加賀の一向一揆が、石山本願寺の命令だとは言え、簡単に義景と手を組むとは考えられない。
依然として、加賀の一向一揆は朝倉義景の急所だったのだ。そのため長政は当初、金ヶ崎に兵を出して攻め取ることも考えていた。
しかし調略が進んでいるとは言え、朝倉景紀は完全に主家に反する行動を起こすまでにはいたっていない。そこで朝倉と全面衝突するよりも、蓄えられる力は蓄えようと考えたのだ。
その結果の丹後侵攻である。
二月の若狭侵攻の時もそうだったが、今回の丹後侵攻についても信長は長政に指図はしなかった。長政は義弟であり、名目上? とはいえ同盟相手である。服属している大名ではない。
もちろん、史実での徳川家康と同程度まで大きくなれば、警戒もするだろう。しかし、今はまだその段階ではない。
それを言うなら、純正こそ警戒すべき第一の対象なのだ。
朝廷は天下静謐、民の平安を第一に考えているので、丹後の民の困窮を聞けば反対はなかった。
義昭にしてみれば、本来なら若狭守護になるはずの武田元明の奪還が先であった。
信長が伊勢長島に出兵している事もあったが、一度は信長にも命じた越前への出兵を、単独で長政に命じるのは、信長の顔をつぶす事になる。
もっとも、長政に対して越前攻めだろうが丹後攻めだろうが、御内書を出すことに変わりはない。
信長も、殿中御掟にあるにもかかわらず頻発する、義昭の御内書発行にうんざりしてはいた。しかし現段階では敵対するには至らない。
そうして長政の丹後侵攻は進められたのだった。
また長政は丹後侵攻と並行して、若狭の実質的な支配者としての地位を、より固めるための動きを忘れてはいなかった。
小浜の権益で生まれた金による、中小の国人や土豪の懐柔を忘れてはいなかったのだ。
これから迎えられるであろう武田元明も、今若狭を二分している粟屋勝久も、二人とも名目であり建前である。
徐々に力を削いでいき、長政なしでは国を運営できないほどに依存度を高める。それが長政の戦略であった。
丹後に隣接する丹波では、波多野、赤井、内藤などの小大名が乱立しており単独での干渉はできず、連合も組むことができずに長政の丹後侵攻を許した。
また同じく隣接する但馬の山名であったが、これも織田に対して微妙な立場をとっており、面と向かって同盟国の長政と対立する事もなかったのである。
史実では時とともに存在感が薄れ、反旗を翻す事でしか戦国大名としての主張ができなくなった浅井長政は、この世界ではどう生きるのだろうか?
それは誰も、純正でさえも知り得ない未来であった。
「義兄上、待っていてください。義兄上に必要とされる、なくてはならない存在に、この長政はなりまする」
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