元亀元年 十月十四日
隆景は翌日の八日の朝から安芸倉橋島へ向かい、そこからさらに船に乗った。
忽那の島々をへて伊予鹿島城下へ着いたのは九日の夕刻である。
一泊して湯殿城下を経て、喜多郡の佐多岬半島の佐田浦、三崎浦までは街道がすでに整っており、駅馬車で向かった。
距離にして113km。普通に馬で向かえば二日、つまり到着は十一日になる予定が、十日の夕刻には着いたのである。
それがまず隆景を驚かせた。牛車は知っているが、馬車など見た事もない。
十一日の朝から三崎浦から出ている定期船にのり府内湊へ向かう。朝一番の船で、昼過ぎの未三つ刻(1400)についたのだが、驚いたのはその賑やかさだ。
毛利領内のどの湊とも違う、異国の空気ただよう熱気ある湊である。
そこから駅馬車に乗り換え、日田へ向かう。久留米、佐賀、鹿島、太良を経て、諫早へ到着したのが十三日の未四つ刻(1430)であった。
隆景は先触れを送り、翌日の十四日、登城する旨を伝えた。
■諫早城
「初めてお目にかかります、毛利右衛門督様が家臣、小早川中務大輔隆景にございます」
「これはこれは小早川殿、わざわざ毛利の両川たるお方が、いかなるご用件かな?」
諫早城の天守にある、謁見の間で隆景を迎えた純正は機嫌良く答える。
そういえば純正は、いつの頃からか出向くより迎える方が多くなった。出向くのは朝廷、将軍、信長くらいであろうか。
「は、さればわが主、右衛門督様は、中将様のお考えをお伺いしたいと仰せにございます」
「ほう」
純正は短く答える。これ、同じような質問なかったかな? 尼子? 浦上?
そう考える純正の正面で、隆景は全てに圧倒されていた。予想はしていた。予想はしていたのだが、すべてが規格外で隆景の考えを上回る物ばかりだったのだ。
領内に張り巡らされた街道には、『があどれいる』なるものがあり、歩行者と馬や馬車が区別されている。
駅馬車の存在と速さには度肝を抜かれたが、何よりも領民がみな笑顔なのだ。
戦乱の悲壮感というのが全くない。
街道の領民は笑顔にあふれ、仕事にいそしみ、買い物をしたり娯楽を楽しみ、食事を楽しんでいる。毛利の領内も前線以外は平穏だと思っていたが、それとは違う。
小佐々にとっての国境である伊予鹿島ですら、戦乱の雰囲気がない。
もちろん毛利とは同盟国で、交戦国や非同盟国との国境ではない。しかし道中で何泊かしたが、そのたびに隆景は領民や宿の主人、旅人に聞いて驚いたのだ。
皆口々に言う。『やっと安心して暮らせる』と。小佐々が負ける事は考えないのか? と聞いても、笑われるだけであった。
府内で軍船もみた。隆景が見た軍船は小型で古いものであったが、それでも軍事技術の差を見せつけられたのだ。
「されば、お伺いいたします。近ごろ中将様は、播磨、備前、美作、因幡、但馬の大名国人衆に、服属を促すような書状、ならびに使者を遣わされていると聞き及んでおります」
「ふむ」
「これは、いかなる御存念か、お伺いいたしとう存じます」
隆景は至極丁寧に、言葉を選び、純正の表情を見ながら聞いた。
「? なんで? なぜにそのような事、小早川殿にお答えせねばならぬのか、皆目見当がつかぬが、これいかに?」
隆景がひきつる。失敗した! 聞き方を間違えたか。
「いかに、とおっしゃれてましても、その……くだんの意図をお伺いいたしたい、としかお答えしようがございませぬ」
「ふむ、残念である。それではこれ以上話すことはないようじゃ。遠路、ご苦労でござった。小早川殿、言葉足らずでござるぞ」
純正は立ち上がり、退座しようとする。隆景は慌てて叫ぶ。
「お待ちを! どうかお待ちを! いましばらく!」
倍近く歳の違う純正に対して、隆景は押されっぱなしである。初手から間違えたか? どうする? どうする? あ!
「改めまして、新たに言上つかまつりまする。こたびは、先ほどの件をお伺いする前に、謝罪の儀、これありて参上つかまつりました」
うむ、と純正は大きくうなずいた。
「中将様伊予攻めの折、我らは密かに策を巡らせ、宇都宮と手を組み、これを我らの味方と致しました。さらに、中将様の西園寺攻めの足止めのため、宇都宮より西園寺へ兵糧や矢弾を供せんと致しましたること、申し訳なく存じまする」
隆景は平伏したまま、微動だにしない。
「そうか、それを踏まえてなにか申し開きはあるか、小早川殿、面を上げよ」
純正は、丁寧な物言いから、少しずつ威圧感を増している。
そして二通の書状をもってこさせ、隆景に見せた。それは昨年の十二月十日に、宗麟が間者から奪った密書であった。
毛利も、小佐々も、龍造寺も長宗我部も、もともとは小さな、吹けば飛ぶような国人領主である。それが一代の英雄によって拡大し、現在の版図を得た。
龍造寺と長宗我部は、小佐々に出会うのが早かったのだ。
だから純正には、気持ちがわかる。そうしなければ滅ぼされるという恐怖心が、今回の行動を起こさせたのだろう。
毛利は大国となっても、その意識は残っていたのだ。それはある意味正解でもあり、今回に限って言えば、間違いであった。
「は、亡き我が父である元就公は、中将様を畏怖なさっておいででした。それゆえ不可侵の盟を結んだのです。本心であれば、攻守の盟を結びたかったはずでございます」
隆景は純正の許しを得て、話し始めた。
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