元亀元年 十一月
純正が西日本大会議を開いているそのころ……。
■石山本願寺
「和議に応じぬとはどういうことだ! 信長は本当に長島を滅ぼす気か? あやつは仏罰が怖くないのか?」
「上人様、やはり公方はあてになりませぬ。信長になめられて、言う事を聞かせる事が出来ぬのです」
本願寺法主である顕如は下間頼芸、頼龍、本徳寺証専の3人に対し、怒りを露わにしている。それに答えているのは下間頼龍である。
信長は9月の初めに、伊勢長島の一向一揆を5万の軍勢で陸と海から攻め寄せ、壊滅的な打撃を与えていた。
石山本願寺から将軍義昭を通じて和議の要請があったものの、信長は無視していたのだ。前回の和議は稲の収穫までという約束であったし、今回の開戦は道義に反するものではない。
それに、信長にしてみれば一度完膚なきまでに叩いておかないと、いつ足をすくわれるかわかったものではなかった。
「援軍は送れぬし、海から兵糧矢弾を送る事もできぬ。これで和議もできぬとなると、長島の門徒は見殺しではないか」
「もはや御仏の御心に従うほかありませぬ。しかるに、信長に対しては諸大名と結束し、一丸となって当たらねば、われら仏門の徒は根絶やしにされてしまいましょう」
頼龍は長島の救済はあきらめ、次の段階に進むべきだと進言している。万策尽きたとはいえ、扇動された長島の一向宗徒はたまったものではない。
しかし、極楽浄土へ行けると考えているのならば、そのような恨み辛みはなかったのかもしれない。
いや、本当にそうだろうか? いくら信心深く退く事もできぬとはいえ、そう簡単に人間が死をも恐れずに戦うだろうか?
キリスト教の聖地回復、十字軍と似たようなものなのだろうか。人種や地域を問わず、宗教の力というのは、ある意味信じがたい力を発揮する。
「ううむ、しかし三好が小佐々に服属した今となっては、われら個々では弱い、信玄はまだ動かぬのか……」
■紀州雑賀
「さて、公方に顕如にいろいろと動いているようだが、われら雑賀の鈴木は本願寺に味方する」
雑賀党鈴木家当主の鈴木重意は重々しくも、わかりきったように言う。
「知っての通りわれら雑賀は門徒も多い。山側の大田党は根来の影響もあって信長につくやもしれぬが、なるべくは直接の戦いは避けたいものよのう」
「そうですね。しかし父上、巷説では『雑賀味方なればすなわち勝ち、敵なればすなわち負け』とも言われております。われらの力は皆知るところ、織田軍など恐るるに足りませぬ」
「ははは、重秀よ、驕るでない。嬉しい話ではあるが油断は大敵、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
「はい、父上」
■紀州根来
「兄上、われら根来はどうするのですか? また本願寺から書状が来ております。公方だ本願寺だと、考えるのは面倒ですが、どちらかにつかねばなりますまい」
根来衆の長である津田監物(算正)にそう尋ねるのは、弟で根来寺の子院、杉坊の院主である杉坊照算(すぎのぼうしょうさん)である。
「照算よ、知れた事を。われらは信長が上洛してよりこのかた、織田とは友好的に接してきた。さきの信長と本願寺との戦いも、やれ仏敵だなんだと騒いでおったが、加担せずに良かったであろう」
「では?」
「変わらず信長に味方しよう。どこで戦になろうと、われらがやることはただひとつ、鉄砲を使いて敵を倒すのみ」
■越前 一乗谷城
「信長が長島を攻めて二月、もうそろそろ落ちるのではないか」
朝倉義景は戦よりも文芸に凝っていたようで、和歌や茶道、絵画などの多くの芸事を好んで行っていた。京より一流の文化人を招き、一乗谷を中心に一大文化圏をつくっていたのだ。
その義景が家老の山崎吉家に尋ねる。珍しく真剣な顔をしている。伊勢長島が降伏すれば、次は越前だとわかっているのだろうか。
「はい、早ければ一月、おそくとも三月で落ちましょう」
「ふむ、尾張の田舎者とあざけっておったが、なかなかにやるではないか。さて、どうすべきか」
「おそれながら申し上げます。今からでも遅くはありませぬ、恭順の意を示し、上洛はできぬとも、その意を伝えるべきです。上洛出来ぬのは加賀の一揆のせいであったと」。
「恭順、のう……」
「信長にではありませぬ。あくまで幕府に従うのです。万が一、万が一戦うとしても今ではありませぬ。後ろに一向一揆衆、それに長政が造反したままでは、勝ち味は少のうございます」
「ううむ、どうしたものか……信玄からの返事があれば、信長など歯牙にもかけぬものを」
■室町御所
「ええい! くそう! くそう! くそう! 信長め、どこまで余を愚弄すれば気が済むのだ! 伊勢の北畠といい、こたびの長島の和議にしても、少しも余の言葉に耳を傾けぬではないか!」
義昭は怒鳴り散らし、やり場のない怒りをぶつけていた。
自分に対してでなくても、怒鳴り声は聞いていて気分のいいものではない。近ごろはその頻度が増えてきているものだから、近習や幕臣はうんざりしていた。
「公方様、お怒りをお鎮めください。今はまだ、信長と表だって敵対してはなりませぬ」
政所執事の摂津晴門は義昭をなだめる。
「これより発給する御教書で毛利の立場を明らかにし、御内書にて大小の大名をまとめれば、小佐々も織田もそう簡単に公方様に刃向かうことは出来ますまい」
将軍義昭は表向きはまだ信長と友好関係を結んでいたが、袂を分かつのは時間の問題であった。
■甲斐 躑躅ヶ崎館
「御屋形様、書状が届いております」
「ふむ」
信玄は高坂源五郎昌信(高坂弾正)から渡された書状をいくつか読み、ため息をつく。差出人は朝倉義景と足利義昭、そして本願寺顕如であった。
「どのような文でございましたか?」
「聞かずともわかっておろう。朝倉は美濃攻め、公方様は信長の長島攻めの和議の仲介、そして顕如からは長島を助けよ、だ」
高坂源五郎昌信はそれを聞き、困った顔をする。
「義景め、若狭を獲ったときはさすがよの、と褒めたくもなったが、所詮は京かぶれの文人か。長政ごときに奪われるとは。しかもその長政は丹後まで獲っておる。これのほうがよほどましじゃ」。
「左様でございますか。しかし、弱りましたな。ようやく上杉と和を結び、北条とも盟約を結んだばかり。いかがするのですか? 今は駿河を完全に手中にして、足固めをする刻と存じますが」
「その通りじゃ、確かに織田は大きくなりすぎておるゆえ、今のうちに叩いておく必要はあるが、どうすべきかの」
「御屋形様におかれては、もうすでに進むべき道筋は見えているのではありませぬか?」
「うむ、実はの……」
そう言って信玄は、武田の戦略として、3つの選択肢を提示したのだ。
■比叡山延暦寺
「座主様、われらはさきの戦にて信長と相対しましたが、特段どこを攻めるでもなく、そのうち信長と本願寺が和議をいたしたため、われらも矛を収めました。この先はいかがいたしましょうか」。
大僧都の尊得が天台座主である覚恕法親王に聞く。
覚恕法親王は後奈良天皇の息子である。長男であったが母が身分の高い位ではなかったため、藤原一族の女性を母に持つ弟が、正親町天皇として即位したのだ。
「うむ、それについては、これを見よ」
覚恕が尊得に見せたのは、純正からの延暦寺に対する提案とも言える書状であった。
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