元亀二年 二月二十五日
三ヶ月前の元亀元年十一月、新しい西国の枠組みが決まった。
一万石から三万石の国人の多くが純正の提案を受け入れ、知行地を大幅に減らし、俸祿にて仕えることを選んだのだ。
しかし、領民やその下の家臣たちも、たかだか三ヶ月で主従の結びつきが弱まるわけではない。純正は状況により加増転封を行ったが、基本的にはその地の代官として国人を遇した。
スムーズに領地経営をするためだが、その反面土着であるゆえに反乱の危険性をはらんでいたのだ。
実情は代官で、家臣(?)の俸禄は純正が支払い、運営に必要な費用はすべて純正が国庫(領庫?)から支出する。
全てというのは語弊があるが、四公六民のうちの四公をさらに分割する形だ。四公の中に国税である所得税があり、地方税である住民税が含まれている。
これは農家での例だが、農家は町人に比べ他の税金がない。収穫の四割が税金に取られるからだ。農閑期の副業に関しても上限を設け、超えなければ課税されない。
商人や職人である町人は、所得に応じて年間で計算され納めさせる。
たばこや酒、特産物にもそれぞれ課税されている。馬車税(自動車税?)や財産税(固定資産税や牛や馬などの財産他)など、諸々だ。
税金の話が長くなったが、そのため仮に(元)領主が声をあげ、反乱の狼煙をあげれば、一斉に広がる恐れもあったのだ。
戦国時代は弱肉強食。家を残し、生き残るためには主君を選ばなければならない。
節操なくコロコロ変えるのを良しとはしないが、それでも情勢により強者になびくことは悪ではなかった。
『忠臣二君に仕えず』という言葉があるが、これは戦乱の世が終わり、主家が滅ぶことがなくなった江戸時代以降に、広まっていく思想である。
そのため、今は小佐々が強者であり、圧倒するものがいないので従っているという理屈が通る。
もちろん小佐々の経済圏に入り、二年三年とその恩恵を受けていればそれはなくなる。
しかしいまだ三ヶ月の山陽山陰、もっといえば四国の国人衆は、いつ寝返るかわからない、砂上の楼閣と言えるのだ。
「殿、よろしいでしょうか」
発言したのは宇喜多直家である。
「なんだ、申せ」
「は、このところ駿河守様と各地の国人との文のやりとりが増えておりまする。例をあげれば因幡の武田、伯耆の南条などの山陰勢をはじめ、山陽では浦上、赤松と頻繁に行き来しております」
「そうか、やはり避けられぬか」
「は、さらに吉川は租借料として渡した銭を、そのまま武具兵船の備えにまわしておりまする」
援助金をそのまま軍備に充てるとは。まるでどこかの国のようだ。
「さようか。俺が知らぬと思っているのだろうな。しかし備えはできておる。陸海軍は所定の配置についておるが、諸大名に後詰めの触れは出してるか?」
「は、宗麟殿は豊後筑前勢と共に四国勢を束ね伊予来島城に、島津兵庫頭(義弘)殿が薩隅日肥の兵を率いて、豊前より渡海する手はずとなっております」
「うむ。陣触れなきがよい事ではあるが、陣触れがあれば、速やかに動けるようにと知らせよ」
発 近衛中将 宛 治部少丞
秘メ 弾正忠殿 越前入リ ツツガナク 終ハルヲ 願ヘドモ サウナラザリシ 気配アリ 大使館 ナラビニ 旅団 将兵 共ニ 臨戦ノ 構ヱヲ 備ヱルベシ 延暦寺 カラノ 返事ハ 無キヤ 武田 上杉ノ 報セアルトキハ 急ギ 伝ヱヨ 秘メ
■杣山(そまやま)城 織田信長本陣
「申し上げます! 徳川左京大夫様より火急の書状が届いております!」
伝令が息をきって幕舎に入ってきて伝える。
「みせよ」
信長は家康からの書状を受け取り、一読する。
織田弾正忠殿
拝啓 火急の事態にて 時候の挨拶の なき事 お許しいただきたく 申し上げ候。
今般 わが徳川家中と武田家において 駿河遠江の国境にて いさかいが 相次いでいる有様に候。
かねてより定めし約定にて 大井川を境に 東を武田 西を徳川と 記して候。
然れども 武田軍 たびたびそれを越え 周辺のわが軍の城を 攻め取らんとする勢いに候。
もはやわが家中も 信玄の傍若無人な振る舞い 我慢の限界にて 一戦交えん考えに決して候。
織田家中と信玄とは 盟約ありしと 存じ候へども ここで黙りて戦わずは 父祖の誇りに 違えて候。
わが徳川家中と織田家中は 盟約を結びし間柄にて 一筆したためて送りし候。
敬具
徳川左京大夫
「ふむ」
信長は短くつぶやくと、しばらく考え、筆と硯と紙を用意させた。
徳川左京大夫殿
拝啓 預かりし文目を通し候。
先般貴殿の国にても 多大の困難有りしを 聞きおよび候。
然れども、これは言葉合戦と同じにして 挑発に間違いなきと 考え候。
ここで先手をうちて 攻めかからば 武田の策にはまらんと存じ候。
わが織田も東美濃にて 遠山景任なきあとの取り計らいにて いさかいありて候。
然れども 幾度となく文を交わし 使者を遣わし 事なきをえて候。
左京大夫も 同じく 耐え難きと存じ候へども 今一度考え 耐えるべき時かと存じ候。
武田を敵に回すは 彼我の力を考えるに 今は時期尚早にて もし今 戦になり候へば 織田も徳川も 木の端くれのごとく微塵とならんと存じ候。
決して短慮即断にて 道を違える事なきよう 厳に慎むべきかと 存じ候。
命にはあらず されども行うべきことと 伝え候。
弾正忠
■甲斐 躑躅ヶ崎館
「申し上げます! 越前金ヶ崎城落ちましてございます! また、越前亥山城にて朝倉景鏡、謀反にて討たれてございます!」
「そうか、討たれたか。信長め、やりおる。いや、これは義景が不甲斐ないだけであろうな」
信玄は驚かない。想定の範囲内という事だろうか。しかし、織田が朝倉を攻め滅ぼしてしまえば、確実に強くなる。まだ、動かないのだろうか。
亥山城で健闘するも、総大将が謀反にて討ち取られては、さすがに本来の力は出せない。寝返って越前への侵攻を許す事は避けられたが、兵の動揺はいかんともしがたかった。
謀反がなく本来なら、亥山城で織田軍を撤退させ、後背をつく戦略であったのだ。
しかし、現状は耐えるのが精一杯である。杣山(そまやま)城を守る兵は五千たらず。織田本隊と浅井軍を含めた四万五千に対して明らかに劣勢である。
信玄が各方面から送られてくる書状を読み、情報の優劣を定め、精査をしながら取捨選択しているなか、書状を携えた使者がまた一人、現れた。
武田大膳大夫殿
拝啓 如月の候 貴殿におかれましては益々ご清栄の段 心よりお慶び申し上げ候。
さて 幾度となく文をいただき われら三家 合議に合議を重ね 心が決まりし事 お伝えいたしたく存じ候。
昨年 東美濃の上村(岐阜県恵那市上矢作町)における 遠山との戦より 武田家の強さ いかばかりかと 考え候。
われら三家 家康の 度重なる 軍役に 民も兵も疲弊し この上 さらに続けば 家を守ることもままならぬと 考え候。
大膳大夫殿が三河を攻める折は 先手として ご案内つかまつりたく考え候。
遠江三河を平らげた暁には 本領並びに いくばくかの 知行を賜りたく 願い奉り候。
敬具
作手城 奥平美作守(貞能)
長篠城 菅沼左近助(正貞)
田峰城 菅沼刑部少輔(定忠)
信玄は、ほくそ笑んだ。
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