元亀二年 十月二十一日 信貴山城 織田軍本陣
「ほうほうほう、これはこれは……。飛ぶ鳥を落とす勢いの天下の小佐々家中、重鎮の御三方ではありませぬか」
信長が純久はもとより、直茂や利三郎の事をどれだけ知っているかは不明だが、少し皮肉交じりの挨拶をしてきた。
純久と直茂は何度か信長にあっているが、利三郎は初めてである。
「小佐々近衛中将様が家臣、太田和治部少輔(利三郎)にございます。小佐々家中にて渉外全般を任されております」
「お久しゅうございます、鍋島左衛門大夫(直茂)にございます」
「治部少丞にございます」
三人がそれぞれ、挨拶を交わす。
「治部少輔殿は……初めてにござるな。弾正忠にござる。以後、見知りおかれたい」
信長はそう言って三人を見回し、利三郎を少しだけ見ると、黙る。
……。
……。
……。
「どうした? 用件はなんなのじゃ? 暇ではないのだぞ? 三好の小僧を成敗して今は弾正。殺すには惜しいゆえ降伏を勧めておるが、次は雑賀に本願寺、伊賀の国衆とわしは敵が多いのじゃ」
怒っている訳ではない。笑っている。
しかも何を考えているかわからない笑いだ。とりあえずどんな表情をしていいかわからないから笑っている、というのが正しいのかもしれない。
「は、されば申し上げます。わが小佐々家と弾正忠様は盟約を結ばれ、はや二年が経とうとしております。弾正忠様におかれては、畿内における静謐にご尽力なされ、敵は多くともその悲願成就も間近と存じまする」
「うむ」
信長は利三郎の言葉に耳を傾けながら、少ない髭に手をやってさすっている。
「わが主である近衛中将様が確かめたきは、これより先の事にございます。弾正忠様はこの先、畿内とその周りの国を安んじて、いかがなさるおつもりなのでしょうか」
「いかが、とな? わしは初めより静謐を求めるために将軍を上洛させ、幕府を立て直したのだ。欲はない。主上の御心に背く者あらば討ち、そうでないものは何もせぬ」
何もせぬ、という信長の言葉には誰もうなずかない。
外交の場で言葉通りに受け取れば大やけどを負う。その言葉の真意を確かめ、相手の本心を見抜かなければならないのだ。
それにすでに、上意である将軍がいない。
「では弾正忠様が遣ろう給うた(追放した)公方様は、どうなさるおつもりでしょうか」
「おい、人聞きの悪い事を申すな」
信長の目がギロリと光る。
「言うておくが、わしは遣ろうてはおらぬぞ。和睦の条件にも入れておらぬ。勝手に出て行ったのじゃ。困った公方様じゃわい」
確かに、信長と義昭の和睦の条件に京都からの追放は含まれていない。義昭が信長の報復を恐れて勝手に逃げたのだ。
しかし、第三者はそうは受け取らない。信長としても不本意だが、噂の火消しに大きな労力が割かれているのだ。
「ご無礼つかまつりました。では、いかがされるおつもりでしょうか」
「うむ、まずは所在を確かめねばなるまい。その後、いずれ京に戻るよう手配いたそうかと考えておる」
「左様にございますか。どこかお心当たりはおありなのでしょうか」
「わからぬ。然れどわしも暇ではない。朝倉や本願寺、雑賀や延暦寺に伊賀、武田などにも策を講じねばならんのだ。わしに刃向かうは主上のお心に背く事であるからな」
!
全員が、聞き逃さなかった。信長は、主上のお心に背く事はわしに刃向かう事、ではなく、わしに刃向かう事は主上のお心に背く事だと言ったのだ。
「左様にござりまするか。然れど主上の代わりに御政道を取り仕切る公方様が、弾正忠様を討つようにお命じになっていたのではありませぬか?」
「そこよ。本来ならばこのような事は起こるのがおかしいのだ。公方様を含めた幕臣が襟を正して範となる行いをしておれば、このような事にはならなんだ。異見書しかり御掟しかりじゃ」
「おかしな事になっておりまするな。このままでは弾正忠様は、公方様のお考え、つまりは主上のお心に背いている事になりますぞ」
「愚かなことを申すでない。御掟や異見書を出すまでに、どれほどわしのところに不平や不満の届け出が来ておったと思う? つぶさには知らねど、御掟や異見書は知っておるであろう?」
「は、弾正忠様はその下々の不満を解くべく苦言を呈しておりました。然れど聞き入れられずに逆に恨むれば、このような事になりてございます」
「……。ふん。まあ、良い。今さらどうにもならぬわ。それで、そのような事を聞きに来た訳でも、言いに来たわけでもあるまい。それだけなら治部少丞だけで事足りるわ」
信長はそう言って奥へ行き、しばらくして戻ってきた。
「この事であろう?」
そういって桐の箱を渡す。乱暴に投げつけるわけでもなく、手渡しである。利三郎は両手で受け取り、結び目をほどき、恭しく蓋を開け、文書を読む。
もうわかっていた。勅書である。
勅
平朝臣織田弾正忠三郎信長殿
長き騒ぎ(戦乱)の世において、かろうじて天下泰平になりけりと思えども、かさねて騒ぎの気配が天下を覆いつつあることを、深く憂い思い巡らしたり。
故なくしての戦は、ただ無用なる血を流し、民を苦しめるのみならん。騒ぎを避け、静謐への道を探る事を、朕は願いたり。
貴殿の勢と光は天下に知れ渡るものなり。ゆえに貴殿にはさらなる慧眼と深い慈愛を以て、故なき争いを止め、万民を安んじることを切に願いたり。
貴殿の賢明な判断が、天下の当来を大いに左右する事と信じたり。戦を慎み、静謐にて栄える道を歩むことを、心より願いたり。
元亀二年 十月十日 時 巳一刻(0900)
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