天正元年(元亀三年・1572) 三月二十日
純正が発議した警察機構の発足については、同時にその教育機関についても言及された。
警保学校や消防学校、海上検非学校が設置され、将来的に幹部を育成するための大学校も検討されたのだ。
また、情報省関連の組織改編と新省の設立も行われた。
・司法省内に領内捜査局(現情報省内領内捜査局……FBIみたいなもの)を開設。常設の広範囲捜査網の必要性から発足となった。
・領土安全保障省を新設、大臣に赤塚源太左衛門尉真賢。
・情報省、司法省、領土安全保障省は情報の共有と人材の交流を行い、不測の事態に備える事。
各大名家の諜報力を弱めるためが本音であったが、抱えていた忍び衆は解体され、その後情報省へ編入された。
世鬼政忠や薩摩の山くぐり衆頭領である赤塚真賢も同様である。
一連の純正が行った中央集権的な省庁の再編は、小さな軋轢を生んだが、忍者を何に使うのか? と問われれば答えられない。
必要なものは小佐々の官(政府)が用意するのである。
■能登 七尾城
「それがしは得心(納得)できませぬ! いかに越中守護としての権を直し立つる(復活させる)ためとはいえ、他の家中の軍兵を領内にいれるなど、古の三国志の劉璋のごとき行い。国を滅ぼすもとにございます!」
そう語気を強め、畠山義慶の前で長続連(親織田)、温井景隆(親本願寺)ら重臣に語りかけるのは、親上杉派の遊佐続光である。
「そも、原田孫七郎らがやっておる兵糧の備えなど、それがしは聞いておりませぬぞ」
「いや、これは美作守殿、申し訳ござらぬ。急を要した上、われらのみで小佐々の使者に答えを出してしもうた」
義慶は黙って続光を見ているが、続連と景隆は軽く頭を下げた。
「それは……済んでしまった事は、もうよいです。されど軍兵は別にござる。兵糧だけならいざ知らず、小佐々の軍兵を領内に入れるなど、いかなる了見かお聞かせ願いたい」
遊佐続光の言葉に、長続連が聞き返す。
「その事にございますが、美作守殿はいかがなさりたいのですか? われらにとりて、極めて大事は畠山家であり能登である。ゆえにその権を高めるための越中への口入れ(介入)なのです」
続連が言う畠山とは、傀儡当主がいる畠山家であり、能登とはその傀儡を擁す事ができる、自らの政治基盤に他ならない。
その点で言えば長も遊佐も温井も、同じ穴のムジナである。
「そのような事は存じております。然りながら、かような事を許せば、小佐々の者どもらの能登への余計な口入れを許しましょうぞ」
小佐々家の軍事介入を恐れているようだ。
いや、むしろ続光の考え方が普通なのかもしれない。日本に米軍がいるのは戦後八十年近くたった今、違和感はない。
しかし、ロシア軍や中国軍、北朝鮮軍がいたら?
仮に友好のため、なんらかの政治的理由があったとしても、拒否されるだろう。西側であるNATO軍だとしてもだ。
「では美作守殿に伺いましょう。謙信が越中へ向けて兵を動かしているという報せを受けております。これは神保が一向宗との争いの加勢に頼んだためにござる。その後謙信はいかがしましょうや? 越後に帰りましょうか。……否」
続連は続ける。
「そのまま越中を我が物とし、加賀へ向う前に能登をのみ込まんと致すのではありませぬか? 我らが勢(勢い・勢力)は義総公の頃と同じではござらぬ。それがために神保と椎名の争いを許し、謙信の口入れを許したのじゃ」
「左様にござる」
親本願寺派の温井景隆も発言した。
三代前の第七代畠山家当主、義総の代に最盛期を迎えた能登畠山家は、越中においても守護としての力を保持していた。
しかしその後の義継・義綱の代に権力闘争のため、著しく衰えていたのだ。
「われらはこれまで、やれ織田じゃ上杉じゃ本願寺じゃ、と三つにわかれて争うてきたが、今までは良かったやもしれぬ。然れど、上杉が今より強くなっては、われらに利はありませぬ」
義慶は何も発言せず、黙って家老たちの会話を聞いている。
「織田と本願寺と上杉が、ほどよくあるのが、最も良いのです。小佐々が目指すところもそれにあると考えまする」
景隆の意見に続光は反論する。
「われらを排し、能登をわがものにしようという考えではないのか?」
「仮にそうだとして、小佐々に利があろうか? 能登は小佐々にとって飛び地となりますぞ」
と長続連。
「小佐々にとりても上杉・本願寺・織田がほどよくあるのが、望ましいのです。これこそ、われらが求めるものと、同じではありませぬか」
温井景隆も同調する。
……。
議論は紛糾し、国論の統一に数日を要したが、結局のところ能登畠山家は、小佐々家の軍勢が能登に入ることで均衡を保つ、という選択をするのであった。
上杉の勝ちが明らかになり、状況が悪くなれば寝返れば良い、そう考えた遊佐続光は、不承不承ではあるが納得したのだ。
■越中 |婦負郡《ねいぐん》 |楡原保《にれはらほ》 |城生城《じょうのうじょう》(富山県富山市八尾町城生)
「殿、小佐々権中納言様が家臣、日高甲斐守様と仰せの方がお見えにございます」
「……何? 権中納言様の遣いじゃと?」
面識もなければ何のつながりもない日高喜の訪問に、驚きを隠せない斎藤次郎左衛門尉信利である。
「わかった。お通しせよ」
神保長住からの陣触れにより、慌ただしく準備していた信利は、喜を謁見の間に通す。
「初めてお目にかかります、小佐々権中納言様が郎等(家臣)、日高甲斐守と申します」
「次郎左衛門尉にござる。遠路くれぐれと(はるばる)ご苦労にござった。して、こたびはいかが致しましたかな? われら、見知った中にはござりませぬが」
信利の言葉は歯切れがよく清々しい。父である斎藤伯耆守信基は健在であったが、病床にあったため家督を継いでいた。
「は、左様にございます。然りながらこたび、次郎左衛門尉様にお願いの儀、これあり、罷り越しました」
「はて、願いとは。なんでござろうか?」
「は、今御家中は神保様の命により、本願寺攻めのための軍支度をしておられると存じます」
「左様」
「ならばお聞きしたく存じます。御父君の伯耆守様はむろんの事、次郎左衛門尉様も知勇兼備の将、なにゆえに神保様に諾い(従って)ておるのでございますか?」
「ははははは、随分とぶしつけな物言いにございますな甲斐守殿。そのような口ぶりでは御使者は務まらぬのでは?」
「失礼仕りました。次郎左衛門尉様におかれては、回りくどい言い方は好かれぬと思いましたゆえ、失礼の段、ご容赦いただきたく存じます」
「構いませぬ。然れど、先ほどの問いに答えるならば、力ある者に諾うは自然の理にござるゆえ、致し方ございませぬ」
「神保様が、にございますか?」
「左様、われら斎藤家は長きにわたり神保家とは争うておったのだが、わしが生まれる前、攻められ諾う事を強いられた。それからはこの通りにござる」
「左様にございましたか。然りながら、今の神保家に在りし日の強さはございましょうや。椎名と争い、武田と組んで上杉と争うたと思えば、今度は味方であった本願寺に掛かりけり(攻めた)にござる」
「……」
「今はただ、上杉の威をかりておるに過ぎぬのではありませぬか?」
「御使者殿、何が仰せになりたいのでござるか?」
信利は怒ってはいない。ただ喜の言わんとしている事に考えを巡らし、結論を求めただけだ。
「は、われら小佐々は、上杉と一戦も止むなしと考えておりまする」
「……ほう」
「朝廷は越中の争いに心を痛めており、越中守護である能登畠山家の威をもって静謐となせ、との仰せにございました。上杉殿にもそのように伝えたところ、越中は今までどおりと致したい、との仰せでありました」
「と、言うと?」
「有り体に(率直に)申さば、畠山家の威光なきゆえの越中の騒ぎ(騒乱)であり、助けを求める者を助くのみ、と。ここにいたっては、一戦しても静謐と為さねばならぬ、とわが主は考えたのでございます」
「して、権中納言様は勝てるのでございますか? 謙信は強うございますぞ」
「もとより勝てぬ軍はいたしませぬ。直参の軍兵(正規軍)が二万八千、そして大名国人の軍兵が四万五千にございます。七万三千の軍兵にて謙信と打ち合い(戦う)まする。お力添えを」
「寝返って、神保を討て、と?」
「そうは申しませぬ。時が来て次郎左衛門尉様がそうお考えなら、それもよし。我らといたしますれば、兵を起こせど討ち合わず、でお願いしとうございます」
「……あいわかった。然れど、しかと約す事はできませぬぞ。万一にも負けるような事があってはならぬゆえ」
謙信公が二万八千の軍で越中に討ちいるとは聞いている。
喜の言う七万三千が嘘だとしても、倍程度の兵はいるのかもしれない。いずれにしても、慎重に事を運ばなければならない、そう信利は考えていた。
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