第532話 謙信の深謀遠慮と織田家の動向

対上杉謙信 奥州東国をも巻き込む
謙信の深謀遠慮と織田家の動向

 天正元年(1572) 三月二十九日 越中国新川郡 宮崎城

「申し上げます! 飛騨との国境に、怪しき勢(軍勢)ありとの報せがございました!」

 春日山を出発した謙信のもとに、報告が入った。

「なに? 怪しきとはなんじゃ? 武田の勢(軍勢)か?」

 須田満親が確認する。

「いえ、武田菱は見当たりませんでした」

「武田、ではない? 御実城様、これは……」

「ふふふ、武田ではあるまいよ。公方様の扱い(調停)にて和睦がなっておるし、駿河を得ておるのだ。今さら北に向かう故(理由)もなし。となれば織田ではあるまいし、工夫につ(考えつく)と言えば、一つしかあるまい」

「まさか……権中納言様、にござるか」

「その、まさかよの。そもそもわれらは盟を結んではおらぬし、かたみたがう大義を持ちたるのだ。過日の、越中の守護の儀よの」

「では、能登畠山に口入れ(介入)して、兵を出したという事にございますか」

「そうであろうの。如何様いかように(どのように)して権を見せるのか、と我が問うたからの。それに応うるべくいくさの支度をしたのであろう」

 謙信は口元に笑みを浮かべながらそう言った。

「けだし(おそらく)我らの側方そばざま(側面)、あるは(あるいは)後ろより掛からん(攻撃しよう)としておるのだろう。ふふふ、浅し(浅慮)よのう。稚児でも工夫につ(考えつく)事よ」

「然れば、如何なさいますか?」

「案ずるでない。城生城じょうのうじょうの次郎右衛門尉につかいいをだせ。筋(内容)は記して渡す。加えて信濃も計らわねば(考慮しなければ)なるまい」

「信濃にござるか」

「左様。わが越後は北に南に長い。それにこたびの勢のつら(軍列)は十三里(約51km)にはなろう。我らの糧道を絶たんとするであろうからな。ゆえに信濃じゃ。飛騨に怪しき勢あれば信濃にありても怪異けい(不思議)ではなかろう?」

「は、ではその荷駄に押し掛く(襲いかかる)と?」

「ふむ。れどいまだ荷駄は不動山城を越えたあたりであろう。ここで荷駄に押し掛くのであれば、敵はすでに越後に入っておらねばならぬが、その報せはない」

「では、如何なる仕儀(事)にございましょうや」

「敵の当て所(目的)が荷駄ではなく、我らと春日山を絶たんとするならば、城を抜き(落とし)、かすめて(奪い取って)は足溜まり(根拠地)とするであろう」

「うべなるかな(なるほど)」

「とてもかくても(いずれにせよ)、策は与えておるゆえ案ずる事はない」

「はは、この満親、感服の至りにございます」

 謙信は笑みをたたえたまま、つぶやいた。

「さて、いささか(少し)は我を肥やす(楽しませる)であろうか……」

 

 ■美濃 岐阜城

「いやはや、げに(実に)長きつらにございますなあ。八里半(32km)はございましたでしょうか」

「猿! 何を言うか。あれしきのつら、長島に朝倉、いずれに討ち入るみぎり(時)もあったであろうが」

 秀吉の発言に柴田勝家が腹立ちまぎれに声を荒らげる。

 天正になって木下(藤吉郎)秀吉は羽柴藤吉郎秀吉と名乗り始めるが、織田家中ではいまだに蔑んで猿と呼ばれる事も多かった。

 もっとも信長が呼ぶ猿は、愛称の猿である。

「そうでございました! いや、それにしても軍兵の怪し(奇妙・奇天烈)こと甚だしきにございまする。鎧もちゃくせずただ黒の衣をまといておりました。くわえて常体つねてい尋常じんじょう)ならざる鉄砲と大筒の数にございます」

 満座がざわつく。

「ふふ、小佐々の軍兵は京にて何度も見ておるが、掛かる(攻撃)を捨て動き易しに徹しておるとみえる。そをなす(それを成立させているの)は常体つねてい尋常じんじょう)ならざる鉄砲の数に扱う兵法であろう。……然れど、またし(完全な)ものなど、ない」

 ニヤリと笑う信長の言葉に、静まりかえる。

「われらは小佐々の良し所は学び、改めるべき所は改めねばならぬ。正に(確かに)鉄砲と大筒はいくさの首尾を決める重し道具ではあるが、そればかりで軍は決まらぬ」

 明智光秀、滝川一益、羽柴秀吉の三人が頷きながら信長の言葉を聞いている。

 光秀は京にあって朝廷や幕府と織田家との連絡役をしていたが、義昭逃亡後は細川藤孝がその任を負っていた。

「殿、六角承禎様がお見えです」

「おお来たか。通すが良い」

「はは」

 

「よう参ったの。して、如何であった?」

「は、のぞむはあの謙信という事もあり、皆で集まり頭を割りて、おもんみて(試行錯誤して色々と考えて)おるようにございます。はじめは荷留と津留にて銭と物の流れを止め、信濃と飛騨より、謙信の側方そばざま(側面)、あるは(あるいは)後ろより掛からん(攻撃しよう)としている様にございました」

 加えて、と承禎は続ける。

「能登より船手(海軍)を出しては越後の荷船を封じ、五万の兵にて越中に入らんとしております。然りながら万難を排すため、助言を請われましてございます」

「ふむ、如何に問われ、如何に答えたのだ?」

「は、謙信とは如何様な人間であろうか、と問われましたので、天骨にて天賦の才の持ち主と答え申した」

「それで?」

「は、如何に戦うか? と問われましたので、天骨とは常人に非ず、と応えました。行いも意趣(行動も考え)も違うため、臨むには常人が能わぬ事、やらぬ事案じぬ事を為すと思えばよい、と答えましてございます」

「ふふふ、左様か。言い得て妙であるな。して、此度こたびいくさ如何いかが考える?」

「は。はじめのうちは謙信が勝りましょう。然れど盛り返し、長引くのではないかと考えまする」

「何故そう思う?」

「は、報せがないゆえ実正(確かな事)は申せませぬが、あの信玄と渡り合うたのです。初見で見切るのは難しかと存じます。然れど中納言様の郎等(家来)も、曲者(海千山千・したたか者)も多うございますれば。あとは謙信が軍の済済すみすまし(決着)を極むる(決定づける)勝ちでもせぬ限りは、長引くかと存じます」

「左様か。頃合いを、見なければならぬな」

 信長はこの戦いの終わらせ方を考えなければならなかった。

 少なくとも、加賀を手に入れるまでは、越中が小佐々のものであってはならないからだ。

 

 ※仇(あた・あだ・かたき)=敵(てき・かたき)ですが、敵という字も同じ意味で使われていたようなので、今後は敵に統一します。
 ■第三師団、陸路にて北信濃の平倉城へ 4/5着予定。
 ■土佐軍、近江国高島郡海津発 陸路にて敦賀へ向う。
 ■加賀一揆軍、金沢御坊発。

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