天正二年六月二十八日(1573/07/26) 志摩国答志郡 船津村
「ふふふ、壮観よの、嘉隆。あの一番大きな船はいかほどあるのだ?」
「は、大型の安宅船程はございましょうか。他の船は小早と関船の中ほどにございます。しめて十隻にあいなりまする」
軍艦製造を任されていた九鬼嘉隆は、信長の問いに答えた。
その答えに信長が感嘆していると、どおんどおんどおん、と海上から大きな音が立て続けに聞こえてきた。
「大砲はいかほど載せておる?」
「は、旗艦には十門、その他の船には六門ずつ載せております」
「さようか。して、いかほど飛ぶのだ?」
信長は船の大きさや大砲の数もさることながら、やはり射程が気になるようだ。
「は、されば初めに造っておりましたフランキ砲は三町(327m)から四町(436m)ほどの長さしか飛ばすこと能わねど、こたびの砲は五町(545m)から七町(763m)ほど飛びまする」
鉄砲、大砲の製造に携わっていた滝川一益が言った。
「おお、さようか。永禄十一年(1568)より手探りではじめて、五年でここまできたか。されど、されど小佐々はこの先を行っておろう。信忠や他の者が戻ってくる頃には、さらに新しき技に術がこの織田にもたらされようが、その時はさらに先にいっておろうの」
信長は一益や嘉隆が開発製造した大砲や軍艦に喜び、二人を褒めながらも、今のままでは純正に追いつくことなどできないであろうと、焦りを感じていた。
「殿、それは地の利というものがございます。西の九州にて南蛮の者どもと直に接し、彼らの技を学んでは盗み、そして自らの考えにて新しきを生むのは自然の道理なれど、我らが為せぬ事はありませぬ」
「それがしもそのように存じまする」
嘉隆の後に一益が答えた。
「為せるのか? そのような策があるのか?」
「策、というものではありませぬ。難し事なれど、いずれは小佐々の歩みが緩む時もまいりましよう。我らの歩みが早くなることもありまする。五年先、十年先、二十年三十年先を考えてくだされ」
「ふふふ。その時にはわしはもう死んでおるな」
「何を仰せになりますか! 殿にはまだまだお元気にございます」
「わしももう四十じゃ。人間五十年と言うではないか、あと十年で如何ほどの事ができようか」
純正と同盟を結び、力を蓄えつつ畿内を制覇して東へ進む。
それが信長が目指した戦略であったが、小佐々の成長が早すぎたのか信長が遅かったのか。その戦略はほぼ潰えてしまっている。
越中が純正の支配下となった以上、北進は不可能となった。当然、東進もできない。
加賀と紀伊を支配下に置き、力を蓄えて機会をみるしかなくなってしまったのだ。
「申し上げます! 丹羽五郎左衛門尉様(長秀)、柴田修理亮様(勝家)、明智日向守様、木下秀吉様、お見えになりました」
「うむ、通すが良い」
信長の声とともに、四名の重臣が入ってくる。
「挨拶はよい。加賀と紀伊の件についてお主らの考えを聞きたい」
一益と嘉隆は四人を迎え入れた後、下座に向かう。
相手は純正である。独断専行のイメージがある信長であったが、進んで家臣の意見を聞き、よりよい考えを取捨選択して決断を下してきたのも事実であった。
秀吉「先日の言問(会談)の件がありますゆえ、以後は勝手な討ち入り(戦争)はできませぬ。もし合議なく討ち入らば、権中納言様の怒りに触れましょう」
勝家「ふん、言いたくはないが、権中納言様の思い通りの言問ではなかったか? 体よく我らの動きを封じておるではないか。それに口八丁手八丁で越中を手に入れておる。われらはもう、進むべきところがなくなってしもうた」
勝家は怒りのやりどころがなく、かと言って言わずにはいられない。そういう雰囲気がありありとにじみ出ていた。
長秀「権六殿、上杉との軍や越中の事を今嘆いても、詮無き事。重しは以後の事にございますぞ」
勝家「そんなことはわかっておるわ」
長秀の正論に納得しつつも、顔はまだ何か言いたそうだ。
光秀「さて各々方、殿の御前であるゆえ、それがしからもご意見いたします」
光秀が冷静に発言した。信長は黙って聞いている。全員の意見を聞いて判断するつもりのようだ。
光秀「まず、われらが加賀を得るという末(結論)を考えてみましょう。そのためには攻め取らねばなりませぬが、過半数が得心する大義名分が要りまする。軍の兵力に関して言えば、われら一力でも差し支えない故、そうなれば加賀は手に入りまする」
嘉隆「大義名分にございますか? ならば十分にあるのではございませんか? そもそも加賀と越中の国境の一揆が発端と聞いておりまする。小競り合いが何度もあり、本願寺に調停と一揆勢の立ち退きを迫っても応じませぬ。これは討ち入るための大儀になりませぬか?」
一益「それは我らの大儀にござろう。我らの大儀が合議の大儀になるとは考えられぬ」
光秀「左様。そしてわが家中、加えて畠山、最後に小佐々家中はこの題目を論ずる事能わぬ」
なにゆえにござるか、と秀吉が質問した。
光秀「何故とは……木下殿、貴殿も言問の場におったであろう? 討ち入りに直に関わる国ならびに、商いにおいて利あり害ありの国は論ずこと能わず、と」
秀吉「それは拒否権の事にござろう。何らかの発議に対して、小佐々・織田・武田の三国のうち一国でも拒否権を発すれば、その発議は合議できぬというもの。その拒否権を発するに、大国の三国が討ち入りをする国である場合、または利と害を有する場合はその権なしとするものにござる」
光秀「同じにござろう?」
秀吉「同じではございませぬ。発議された題目において発言の権がないのと、その発議自体をなきものにする拒否権の有無については全く異なものにござる」
光秀「ううむ、それがしの心得違いか? それは時と場合によると思うが」
秀吉「此度の場合、そもそも論じる権がなければ、浅井、武田、徳川、里見で論じなければなりませぬ。この場合、武田が我らに与するならば、三対一で大儀を得、我らの加賀討ち入りは能いまする。加えてそれは全員で論じた時も同じ。四対三で我らの勝ちにござる」
全員が秀吉の発言に耳を傾けている。
秀吉「されど、拒否権にてこの発議をなしとするならば、武田に拒否権を発してもらわねばなりませぬ。武田にその題目ありや?」
ない。
武田にはないのだ。
武田の周囲に同じような状況の土地があれば別である。
ここで貸しをつくって、次回あるであろう自国の討ち入りの際に拒否権発動もしくは決をとる際に協力してもらうのだ。
秀吉「つまり今、この事の様で我らが生き残り力を伸ばすには、さらに強く武田と手を組んで、少しでも小佐々を抑える策を考えなければならぬという事でございます」
「あい分かった」
という信長の声で、いったん議論は終わったが、加賀と紀伊を手に入れるという野望は潰えた訳ではない。
次回 第596話 尾甲同盟と加賀紀伊討ち入りの策
コメント