天正二年九月十日(1573/10/5) 肥前諫早城 時計製作研究所
織田主導の真の平等合議同盟というべき条件を書き連ねた条約締結に向け、光秀と虎盛が各国を回っている頃、肥前諫早城下にある時計製作研究所では一人の男が奮闘していた。
3年前の元亀元年(1570年)に新型の時計を完成させ、分針を作った男である。
その名も慈恩張秦。
時計製作研究所には小佐々領内の優秀な天才が集まっていて、もちろん忠右衛門や一貫斎、そして秀政も所属している。
各人が研究所を持ち独自の研究を行っているが、異なった分野の異なった研究をするもの同士が集まって刺激をしあい、ブレイクスルーを目的としたものなのだ。
これは各研究所に設置してあり、月に一度は行われている。
漠然とした議題ではなく、時計・雷管・蒸気機関・電気・反射炉などそれぞれの研究で行き詰まっている課題を持ち寄り、議論を交わしてヒントを得ようというものだった。
張秦の目下の課題はより正確な時計であり、いわゆる誤差のない時計である。
3年前に作った時計は、それまでの時計より格段に性能の良い物であったが、1日に5~6分の誤差があった。
分針・秒針を作動させたとはいえ、これでは10日航海すれば1時間のズレが出てしまう。それを加味して航海したとしても、安全で正確な航海はできないのだ。
「して、その蝗虫型脱進機とはいかなる物なのだ?」
忠右衛門が張秦に尋ねる。
脱進機自体の歴史は古く、14世紀ごろと言われている。機械式時計の速度を一定に保つための部品であり、機械式時計に特徴的な『カチカチ』という機械音は、脱進機から出ているのだ。
脱進機の開発の歴史は、時計の精度との戦いといっても過言ではない。
「ご覧ください」
張秦はそう言って脱進機の模型を見せて説明する。
脱進機は、ガンギ車と呼ばれるノコギリの歯のような形をした円形の装置が規則正しくまわって、時計の速度を一定に保つ仕組みである。
「これまでは日に五分ないし六分の誤差が出ておりましたが、先日この新型の脱進機を搭載した壱型時計が誤差を一月に約七十秒と縮めたのです!」
「「「なんと!」」」
全員が驚嘆の声を上げる。
この時代、どんなに短い時間の単位でも四半刻(約30分)である。分や秒の概念などないに等しく、その誤差を測定する事など夢物語どころか、想像すらできないのだ。
もちろん、純正をはじめ父である太田和(沢森)政種の他、小佐々領立学生と卒業生、その他の一部の知識人でしか知り得ない。
しかしこの時計のシステムは、精度の差はあっても、各地の公共施設に設置された時計によって、全領民に共有されている。
同時代の他国では不定時制(不定時法)と定時制(定時法)が混在していたが、領民の生活に密着していたのは不定時制(不定時法)であった。
しかし小佐々領内ではその逆で、定時法である。この新型時計の普及によって、さらにその傾向は顕著になる事であろう。
「蝗虫型というのは、このガンギ車にあたる板が歯車を蹴るように見えることで命名しました。これにより、航海中に正確な経度を知ることが能いまする!」
これまで1日に5~6分とはいえ誤差があったために、海図を正確に作成する事は難しかったが、この壱型時計によってかなりの精度の海図作成が可能になったのだ。
航海の安全と航行に要する時間の短縮につながったのである。
■天正二年十月十二日(1573/11/6) 近江 日ノ本大同盟合議所
「さて、わが織田家からの発議でありますが、越前の隣国、加賀の処遇についてでございます」
木下秀吉が満座を見渡して、発言した。
各国の大名は帰国し、名代として残ったものが合議を行った。発議の内容については事前に通達がされており、各国は基本的な姿勢を明らかにしている。
「具体的なお話をお聞かせ願いますか?」
小佐々治部大丞純久は内容を確認する。
「はい、わが織田家は越前を領し、加賀とは国境を接しております。しかるに加賀の一向宗門は、昨年の四月に起きた越前の一揆に便乗したのです。はじめは領民同士のいさかいだったにもかかわらず、越前に攻め入り、越前門徒と合力して代官所を襲ったのでございます」
「その儀については聞き及んでおります。いったんは弓を伏せ、それぞれの郷に帰ったのではありませぬか?」
純久が確認する。
「然に候。然れどもその後、再び起こりては国境を越え、たびたび越前に勢を送りては脅かしております」
「扱いけり題目(調停した条件)を破りたる一揆勢が悪しき勢と?」
再び確認する純久。
「いかにも。越前の治(政治・内政)における騒動は越前国内にて取りあう(問題にする)べき儀であり、加賀とはなんら関わりのなき儀にござる。それに乗じて越境するなど言語道断。ここに至っては越前の静謐を保つため、加賀出兵も止むなしと考えますが、如何に?」
満座がざわついた。加賀出兵の大義名分を得ようという織田家の発議である。
「そもそも、加賀守護の富樫氏は傀儡も同然。実際は一向宗が牛耳っており、この一揆も、越前に討ち入るための方便にて、富樫氏は事後の承諾とのこと。それとも権中納言様が越中の時のように、守護の権威にてその騒動を収めまするか?」
「そ(それ)は、如何なる了見にござろうか?」
純久の顔が一瞬ピクリと動き、すぐに元にもどったが、純久は努めて冷静を装っている。全員がこのやりとりをピリッとした雰囲気で見守る。
「了見も何も、その通りにござる。上杉と打ち合うた砌(時)、大義名分として越中守護の、ここにいらっしゃる修理大夫殿(畠山義慶)の権威をもって静謐となす、と。それに抗う上杉は敵であるとされた儀にござる」
光秀と秀吉は勝算があったのだろう。
加賀における一向宗の勢いを抑え、越前・織田家に対する敵対行為をやめさせるためには、一戦も辞さない覚悟が必要だからだ。
「ご両人、本当にそれでよろしいのですか? 兵部卿様のお考えと考えてもよろしいので?」
純久は含みのある言葉を二人に投げかけた。
「そはいったい如何なる事にございますか? われら二人、殿の名代として参加しております。殿の御意趣に相違ございませぬ」
「承知しました。では方々、加賀の儀は小佐々預かりとする事でよろしいでしょうか?」
満場一致で小佐々預かりとなった。
さて、件の織田主導の平等同盟条約である。
純久は毛利三家の名前があることに少し驚いたが、半独立の毛利家という事もあり、それ自体が小佐々家に害を為すことでないという事で、代筆して署名押印した。
『天下布商』の印は純正が純久を信用して預けている。これにより織田家主導の平等合議同盟の条約締結となった。
次回 第599話 加賀一向宗、騒乱の幕引き
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