天正四年九月十四日(1575/10/17) 岐阜城
6年前の永禄十二年に小佐々領へ向かった留学生のうち、大学の部の9名は卒業し、2年前に帰ってきていた。信長の命で『岐阜大学』を設立したのだ。
また彼らは、織田領内では小学・中学・高校という教育制度が定まっていないため、まずは各家で師を招いて教育していたものを止め、江戸時代の藩校のようなものを設立した。
読み書きそろばんから始め、四書五経とあわせて武術も教えている。
領内の男子は元服前の6~7歳から入学し、12~13歳で卒業して、岐阜大学に入るのだ。
武家の者もいれば、町人や農民もいた。ここは革新的な信長ならではといったところだが、小佐々領内での彼らの経験が後押ししたのは言うまでもない。
岐阜大学での講義は、教えるというより大学院や研究所に近い内容であった。それぞれの分野で研究を行い、アイデアを出しあってより良いものを作るという流れだ。
堀秀政や川尻秀長ら9名が中心となって研究を行い、その流れで技術が蓄積され、知識が体系化されていけば教育制度の礎となる。
対して小佐々の場合は、まずは寺子屋のようなものを各郡・村につくった。
これは寺の住職に協力して貰い、基礎的な学問を教えたのだ。その後、海軍兵学校や陸軍士官学校の卒業生、傷痍軍人なども含めた人材により講師陣が形成された。
それと同時に大学に教育学部が設置され、その人材の育成を行った上で、小規模な中学校~高校の設立となって広がっていったのだ。
しかし残念ながら、織田家中では人材の絶対数が足りない。
そこで研究所における研究の過程で、知識を言語化し、記録を残すことで教科書として、分類して中学~高校の学習教材をつくったのだ。
これは、9人ではなく研究生が行った。
2年が経ち、ようやく中学校レベルの教科書ができつつある。
■志摩 答志郡 船津村
「久太郎いかがじゃ、わが軍の大砲は? 職人の工夫で、はじめは三町(327m)から四町(436m)しか飛ばすこと能わなかったが、今では五町(545m)から七町(763m)ほどは飛ぶようになった」
鉄砲や大砲の開発・製造の責任者である滝川一益は、自慢気に堀秀政(久太郎)に言う。
「左様でございますね。まさに鋳物職人の知恵の賜物でありましょう。さりながら……」
「待て。お主の言わんとすることは、おおよそ分く(わかる)。小佐々との間で違いのある事は心得ておるゆえ……さあ、申すが良い」
15年前に純正がフランキ砲を真似て作らせたものが、今も同じであるはずがない。既に小佐々領内では、女真族への輸出用のみで、新規製造していないのだ。
「は。さしあたっては二つございます。まずは射程、玉の飛ぶ道程にございますが、これ以上は伸びますまい。恐らくは先ほどの七町は砲を真上と真横のちょうど中ほど、そうこれくらいに傾けての道程でございましょう? 確かに伸びはしますが、当てるのは至難の業かと。それに小佐々の大砲はこの十倍ほどは飛びまする」
秀政は45°の角度を手で示しながら、飛距離と命中度の関係を説明した。
「な! 十倍とな! 馬鹿な……南蛮の砲より飛ぶというのか」
一益の言葉に秀政は答えた。
「つぶさには違いまする。それがしも大砲の鋳造を一から十までは存じ上げませぬが、南蛮でも命中するや否やを別にすれば、既に同じように飛ぶ大砲はございました」
「なんと……」
秀政はカルバリン砲の説明をし、鍛造した鉄板を巻いてさらに加工する方法の説明、そして青銅鋳造への小佐々の大砲の推移を簡単に説明した。
ドリルにて切削し、均一化が図れるようになったのは秀政の大学卒業前であったが、もとより軍事機密である。一大学生では知る由もない。
ここで秀政が話している内容も、一般公開されているもので、純正にとっては知られても問題ないものである。
「もう一つはガス圧……ええと……火薬が燃えるときの勢いのようなものです(知らぬ者に教えるのが、このように難儀な事とは……先生達には感謝してもしきれぬな)が、この、後ろにある子包と呼ばれる筒と砲身を組み合わせて楔を打ち込んでおります。そのため大きな砲は造れず、漏れるので威力も出ず、破れる事もあるでしょう……それから……」
「それは、お主、お主が棟梁となれば、わが領内でも作る事、能うのか?」
「……申し訳ございませぬ。それがし、兵器廠(大砲鋳造場)でのお役目は禁じられておったゆえ、つぶさには存じませぬ。無論その理を突き詰めて、能うようには努めまするが、小佐々が十五年かかったものは、すぐには……」
「……さもありなん。さもありなんか……」
新型大砲の製造までの道のりは短くなったものの、一朝一夕でできるものではない。
堀秀政は工学と土木工学を専攻していた。今後は物理学と化学を専攻していた毛屋武久と共に、兵器開発に専念する事となる。
■諫早 聖アルメイダ大学
史実であれば、信忠は正五位下に昇叙して出羽介如元なのだが、現在は従五位下の無官である。織田家の世継ぎという意味での従五位下だが、大学生として学んでいる身では任官できない。
大学2年となった信忠は、学生食堂で仲間(家臣)と昼食をとっていた。
「殿、あちらにいらっしゃるのは、備前守様(浅井長政)のご嫡男、万福丸殿(浅井長政の嫡男)ではありませぬか?」
傍らの森長可が信忠に告げる。
「ああ、見学をしているのだろう。ほら、我らも内府様(純正)に案内されたであろう? ふふふ。懐かしいのう」
信忠と長可は入学時期は違ったが、同じように純正の案内を受けたのだ。
「さようでございますね。あの頃は見るもの全てが新鮮で、驚く事ばかりにございました」
この頃には織田家も含め、徳川・浅井・武田・畠山・里見からの留学生が多数在籍していた。
毛利や三好、長宗我部、大友や島津といった服属大名家からは当然である。
最初の人員不足時代の信長の無茶振りとは違い、人的にも余裕がでてきたのである。もちろん、軍事機密は漏洩させない。
信忠を含めた16名の中学組同期生は、6名が陸海軍へ進んだ。
軍事機密漏洩の心配はないと判断されたのだが、それは士官としての素養が身についたとしても、活かせなければ無意味という事を意味している。
経営学を専攻していた信忠であったが、武将としての素養は小佐々領に来るまでに身につけていた。ここではより専門的に、組織の経営を理論化したものを学んでいたのだ。
講師は戦略会議室の6名である。
純正に随行して移動するので、二ヶ月毎に常勤を持ち回りして、科目ごとに教えていた。
「しかしもどかしいの。我らがここで学んでいる間にも、小佐々の技術は進んでいく。追いつき、追い越すのはいつのことになるか」
「殿、焦りは禁物にございます。小佐々もわれらも同じ人。できぬ理はありませぬ。焦らずに、しかと足場を固めて参りましょう」
「うむ」
次回 第623話 『中浦ジュリアンの元服と洗礼。遣欧使節団?』
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