天正七年五月十九日(1578/6/24)キャンカバト湾 スペイン軍
「閣下! 艦隊のほとんどが撃沈、拿捕され、もう戦えません!」
傷を負った士官がオニャーテに駆け寄って告げる。小佐々軍の来襲を受け、なんとか一晩持ち越したものの、艦隊は惨憺たる在り様で、もはや戦闘どころではない。
「そうか……もはや、戦う術はないということだな」
オニャーテは焦燥しきっている。
充血してクマができた目が精神的苦痛を物語っているが、絶望的な報告を受け、さらに深いため息をつく。栄光あるイスパニア帝国、ヌエ・バエスパーニャが誇る艦隊が、これほどまでに壊滅するとは。
そんな考えがオニャーテの脳裏を駆け巡った。
「しかし……まだ戦える艦も残っている。さ、最後まで戦う、べきだ……」
弱々しく絞り出す言葉に根拠はない。ただ、言っているだけだ。現実が見えていない。
「どうやって戦うのですか? まともな艦は、もう10隻、いや5隻も残っていないのですよ!」
士官はあきれ果てるが、逃げださなかった自分を後悔しているのだろうか。語気が強まる。
「そうだな……まともに戦える艦が、わずか5隻しか残っていないのか……たった5隻で、どう戦えというのだ」
現実を突きつけられ、言葉を失う。
「それでは、もはや戦う術はないということか……」
オニャーテは重々しくつぶやいた。誇り高きスペイン軍の総司令官として、降伏など考えたくはなかった。だが、現実は厳しい。
「このまま戦っても、無意味であろう。……降伏だ。……! パブロはどこへ行った? ヤツならばこの状況を打破できよう」
「副官なら、もう何人かを従えて、小舟で脱出しました。これは小官も後から知った事です」
「なに? パブロが逃げた?」
オニャーテは、信じられない思いで聞き返した。育ての親である自分を置いて逃げるなど、考えられなかったのだ。
「それは本当なのか? パブロが、そのような卑怯な真似を?」
士官の言葉が信じられないオニャーテの声は、次第に怒りに震えてきた。もし本当ならば、パブロは祖国に対する裏切り者である。
「くそっ、信じられん! 余は、ヤツを信頼していたというのに!」
……。
(卑怯も何も、信頼せずに自分のメンツが大事で戦ったから、こんな体たらくなんだろう!)
「失礼ながら小官は、閣下とパブロ副官とのやり取りを聞いておりました。あれでは副官がそう行動するのも無理がないのでは?」
「そなたは聞いていたというのか?」
オニャーテは、驚きを隠せずに士官を見た。あの会話は、二人きりのはずだったのだ。
「確かに、余はパブロの進言を聞き入れなかった。ヤツは降伏を提案したが、余は戦うことを選んだのだ」
オニャーテは、自分の決定を思い返す。あの時パブロの意見に耳を傾けていれば、こんな事態にはならなかったかもしれない。
「だが、だからといってヤツの行動が正当化されるわけではない。副官たるもの、提督と運命を共にするのが務めだ」
パブロの脱出は当然の判断だったのかもしれないが、それでもオニャーテには受け入れがたい裏切りなのだ。
「余の判断がこの事態を……だが、もはや後悔しても仕方あるまい。そうだ! フアンはどうしたのだ? ヤツが敵を撃破していれば、いずれ戻ってこよう。それまで持ちこたえれば……」
思い出したかのようにフアンとゴイチの艦隊の行方を気にしだすが、今はそれどころではないのだ。
「まだそのようなことを? 仮に勝っていたとしても、ここまでくる間に我らは殲滅されてしまいますぞ! パブロ副官の処遇は、こうなっては誰が処分できましょうか……。閣下、降伏するということで、敵に使者を送って良いですな?」
「……ぐ、ぬ……。そうだな……そう、いたすがよい……」
オニャーテは深いため息をついた。パブロは脱出したのだ。彼を罰する権限は、もはやオニャーテにはない。目の前の降伏交渉こそが、最優先事項なのだ。
「そうだ、敵将に余からの伝言を届けてくれ」
オニャーテは、士官に指示を出した。この屈辱的な降伏を、少しでも名誉あるものにしたい。
「伝えるべきは、二つだ。まず、余は敗れたが、最後まで戦う覚悟であったこと。そして、部下の命を守るための降伏であり、決して命を惜しむような、臆病な投降ではないということだ」
「ご心配なく。閣下の名誉は、必ず守ります」
(まだ自分の体裁を気にしているのか? 確かに戦闘能力がある状態での降伏は、恥辱にまみれたものだろう。しかし倍の兵力に何の策もなく戦いを挑む方が、自殺行為ではなかったのか?)
「頼んだぞ。そなたこそが、余の最後の希望だ」
オニャーテは、そう言って目を閉じた。運命に身を委ねる時が来たのだ。
ぱあーん!
士官の姿が小さくなりつつあったその時、一発の乾いた銃声が鳴り響いた。驚いた士官が後ろを振り向くと、横たわっているオニャーテが見える。
「閣下!」
駆け寄って抱えるも既に息はない。頭を撃ち抜かれて即死であった。士官はオニャーテの死体を元のように寝かせ、十字を切る。そして静かに一礼して、小佐々海軍旗艦の穂高へ向かったのであった。
■第一連合艦隊旗艦 穂高
(誇り高くあるべきスペイン軍の総司令官が、味方の手にかかって非業の死を遂げるなど……)
士官は重い足取りで、小佐々海軍旗艦の穂高に向かった。オニャーテ総司令官の最期を目の当たりにした衝撃と、複雑な感情が入り交じり、彼の心を揺さぶっていた。
(閣下……あなたは、スペイン艦隊をこんな状態に追い込んだ責任を、死んでも償いきれないのでは?)
士官は、オニャーテの指揮の拙さを思い起こしていた。あの時、パブロの忠告に耳を貸していれば、こんな事態には陥らなかったかもしれない。
(閣下を撃った兵士は、自分たちをこんな目にあわせた恨みを晴らすため、撃ったのだろうか……)
士官は、そんな考えが頭をよぎるのを押し殺せなかった。オニャーテの死は事故だったが、彼の心の一部では、撃った兵士に感謝すら覚えているのかもしれない。
穂高に到着すると、士官は小佐々海軍総司令長官の勝行と、小佐々家の当主であり日本の西半分を治める肥前王、純正の前に引き出された。
「敵将からの使者だと聞いたが、何の用か?」
勝行は、厳しい表情で士官を見据えた。
「はっ……オニャーテ閣下は、降伏を決意されました。ただし、二つの条件があります」
士官は居住まいを正し、深呼吸してゆっくりと伝えた。
「条件だと? 二度ならず三度、我らに敵対しておいて、負け惜しみを言うつもりか?」
純正が、冷ややかに問い返す。
「いえ……閣下は、最後まで戦う覚悟でおられました。しかし、部下の命を守るための降伏であり、決して臆病な投降ではないと……それを認めてほしいと」
士官はオニャーテの言葉を伝えた。しかし、肝心のオニャーテが撃ち殺された事など言えはしない。だが遅かれ早かれわかることだ。
「あの戦力差で戦いを挑んでおいて部下の命を守るため、か。ふむ……敗れた敵将としては、潔い態度だと認めよう」
勝行は、とりつくろった降伏の理由など興味がない。要するに自分は間違っていないし、正々堂々戦ったが衆寡敵せず降伏した、というような事をいいたいのだろう。
「だが、もう一つの条件とは何だ?」
純正が問う。純正にとっても降伏の理由などどうでもいいのだ。マニラを狙わず、勝手に明と交易をして、北条とも交易をしているだけなら、(今のところは)なんら問題なかったのだから。
それを自らの欲の為に根こそぎ奪おうなど、思い上がりも甚だしい。
「それは……」
士官は、言葉を濁した。オニャーテの死を、どう伝えればよいのか。
(いえ、事実を伝えるのが私の務めだ。たとえ、その事実が、スペイン艦隊の誇りを踏みにじるものだとしても……)
「実は、オニャーテ提督は……自ら命を絶たれました」
「なに? 自決だと? ああ、そう……」
勝行は純正を見る。気位が高く家柄だけが取り柄の人間が、無作為に起こした戦いで何人もの若者が命を奪われた事を、二人は知っている。そしてその者たちに共通していることがある。
決して自分の非を認めず、自分は正しいと最後まで信じ抜き、悪いのは相手だと信じて疑わない。その他大勢の一人だ。
「では、他の将兵たちは、どうするつもりだ?」
「それはもちろん、降伏いたします。武装を解除し、敵対行動をしないように徹底します」
士官の言葉に、勝行と純正は顔を見合わせた。
「わかった。残った兵士の命は保障する」
純正は、毅然とした口調で告げた。
「はっ……かしこまりました。その条件を、残った将兵に伝えます」
士官は、敬礼をして穂高を後にした。スペイン艦隊の運命は尽きたのだ。
「御屋形様、これで戦いは終わったのでしょうか?」
勝行の問いに純正が答える。
「ほぼ、な。されど敵兵全員の無条件降伏を確認するまでは、油断はできない」
キャンカバト湾の戦いは、小佐々海軍の完全勝利に終わった。日没前に、カバリアン湾で拿捕したスペイン軍の軍艦と捕虜をつれ、第四艦隊が合流した。
次回 第655話『凱旋と織田家』
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