第673話 『信長との対談。御館の乱の形勢逆転』(1579/9/18) 

 天正八年八月二十八日(1579/9/18) 岐阜城

「これはこれは、久しいですな内府殿」

「堅苦しい話はやめましょう中将殿。人払いを願えますか」

 純正は岐阜城で信長と会見した。すぐに信長は近習に伝え、人払いをする。




「久しいな。こうして直に話をするのは何年ぶりであろうか」

「誠に。お互いに立場もございますので、なかなかゆるりとお話ができませんでした」

 ……。

「それで、此度こたびはいかがした?」

「はい。以後の事をお話したく罷り越しました」

 信長と初めて会ったのは11年前の永禄十一年である。その頃は純正も二十歳前で、信長と相対して若干気圧される部分も、なきにしもあらずであった。
 
 しかし今では威風堂々としている。

「以後、とな?」

「はい。上杉の内こうはいずれ収まり、どちらが勝っても衰えるのは間違いありませぬし、わが大同盟の敵ではありませぬ」

「ふむ(大同盟か……)」

「そして景虎側の北条ですが、ご存じの通り過去にわが小佐々と戦になり申した。未だその牙は研がれており、いずれ我が大同盟にとって禍根となりましょう」

「(大同盟にとって、か)」

「奥州もしかりにござる。大同盟は互にはかり、戦をなくすのが当て(目的)にございました。りながら以後は、この日ノ本の最中もなか(中心)となりて、戦を収め、静ひつをもたらすべきかと存じます」

 信長は静かに聞いていたが、純正に尋ねた。

「従うか?」

 信長には、大同盟が他の大名を支配するように思えたようだ。

「力によって従えるという意味ではありませぬ。それよりむしろ、大同盟に入っていただくというのが本意にございます。むろん幾度となく、北条にしろ奥州の大名にしろ書状を送っておりました。が、芳しくありませぬ」

 純正は、上杉は必要であれば向こうから申し出てくるだろうし、北条は断るだろうと予測していた。奥州の諸大名は日和見が多く、明確に参入を打診してきたのはわずかである。

 嫌なものを無理やり勧めたところで意味が無いし、かといって放置しておくわけにもいかない。朝廷としては再三再四、純正に三識を勧めてくるので、いい加減うんざりしていたところなのだ。

 関白にいたっては、義父が今の今まで務めていたのだ。居心地が悪い。

「それでお主、内府一力ではなく、朝廷に認められた大同盟が、公然と宣言するのだな? 幕府の代わりに日ノ本を治めると」

 朝廷が認めた中央政府なら、勅がなくても問題ないだろう。そう考えての事だ。名称や役職は後から考えれば良い。名実ともに裸の王様になった義昭は、征夷大将軍の位を返上するだろう。

 幕府という形ではなく、中央政府の長が征夷大将軍という形でも良いかもしれない。もともと征夷大将軍は令外官なのだ。

「簡単に言えばそうなりましょう。されどこれまでの幕府を超えた枠組みにて、公方様はいてもいなくても良い存在となります」

「ふふふ。随分と不遜であるな」

 信長はそうは言うものの、納得している。室町幕府など、もういらないのだ。北条の庇護の下、かろうじて命脈を保ってはいるが、軍事力もなく、政治基盤も資金源もない。

 あってもなくても、誰も困らない。史実でも義昭は在任を続けたが、結局返上している。

「いかがでござろう? その大同盟の中央政府の枠組みを作った上で、北条や上杉、奥州の諸大名に、ともにやらぬかと問いかけるのです。加えて以後は戦を禁じ、各々の国境を決めて知行地の差配を政府が行う。このやり方に従えぬなら……」

「武を以て制する、と?」

 純正はしばらく間を置いて、「はい」と答えた。あくまでも最後の最後の手段である。

「中将殿、一つお伺いしたいことがございます」

「なんじゃ?」

 純正のこれまでにない真剣な眼差しに、信長も正対して居住まいをただす。

「もし今、小佐々を倒して織田が天下を取れるならば、取りますか?」

 ……。

「く、ふ、ふははははは……。相変わらず面白い事を言う。答えは、応じゃ。戦国の世に生まれ、天下人にならんと願わん男がいるだろうか。……されどもはや能わぬ。能うとしても、それが為にいらぬ戦が長引き、民が塗炭の苦しみを味わうのなら、本末転倒じゃ。わしはそのような混沌とした世を鎮めるために、天下を取ろうとしていたのでな。代わりにお主がやるのなら、今となっては異論はない」

 あははははは、と信長の笑い声が響いた。




 ■信越国境

 勝頼が命じた越後侵攻作戦には、信濃衆だけではなく奥三河の国衆も動員された。当然奥三河の守備兵は少なく、家康の侵攻を許したのだ。これは完全に勝頼の失策であった。

 7年の長きにわたって守り抜いてきたという油断であろうか。大同盟の中で領土争いなど、という慢心があったのかもしれない。しかし、こと奥三河と北遠江に関しては、純正の最初の『構いなし』があったのだ。

 勝頼がその報を聞いて奥三河の救援に北信濃の軍勢を向かわせた時には、すでに全域を家康の軍が占領し、山家三方衆をはじめとした奥三河の国人衆すべてが、降伏した後であった。

 家康は彼らの本領を安堵し、未来永劫武田には寝返らないと血判状を提出させた後、その代わりに七年間の賦役と軍役の免除を約束したのだ。

 軍役がない、というのは正直なところ、これから先は有名無実な言葉である。なぜか? 戦が無いからである。仮に大同盟の連合軍としての出兵があるとしても、家康は奥三河の国衆には軍役を課さない。

 そして賦役に関しても、その領内の事であるから、各々がやれば良いことである。奥三河の国衆が、奥三河以外の普請で賦役を課されることもないのだ。

「おのれ家康! くそ、してやられたわ」

「申し訳ございませぬ御屋形様。われらの失策にございます」

 この領地が誰の物かなどは、遡れば遡るほどあやふやになる。
 
 三河と遠江は、そもそも武田の領地ではない。しかし戦国乱世の状況で支配者は二転三転し、大同盟加入の時点では、奥三河と北遠江は武田領であった。

 信玄の負傷(死亡?)による武田軍の撤退にともない、家康が旧領奪還に動こうとしていた矢先の同盟加入であった。
 
 家康にしてみれば織田の後ろ盾のもと、退却して武田軍の後ろ盾のなくなった状況の奥三河と北遠江を、奪還できる可能性は十分にあったのだ。

 それが大同盟加入によってなくなってしまった。

 家康にとって今回の奪還は悲願であり、また純正が徳川・武田両家の同盟加入の条件とした『構いなし』による、誰にも文句を言われない軍事行動であったのだ。

「こうなってしまっては致し方ない。景勝の題目である金二万両は受け取ったのだ。後は北信濃と上野の沼田城よ。北条も黙ってはおらぬだろうから、われらは妻有城へ向かい越後をうかがう動きを見せて景虎勢を牽制しなくてはならぬ。南信や駿河には、家康も阿呆ではないから攻め入っては来まい」

「はは」

 こうして勝頼は再び北信へ向かう事になるのだが、南の危険が去った景勝は景虎に攻勢を開始し、徐々に形勢は景虎側から景勝側へと動いていくのである。




 次回 第674話 『御館の乱の終結と戦後処理。大同盟政府成立か?』

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