第771話 『明からの冊封と肥前国からの冊封。肥前国、朝鮮出兵となるか』

 天正二十年四月十日(1591/6/1)

「その儀とは、一体何であろうか?」

 宣祖はわかっている。肥前国からの冊封を受ける時期がきたのではないか、使者はそう言いたいのであろう事を。

 明からの使者である沈惟敬しんいけいの要求は朝鮮にとって過大であり、それを実現するために国民に多大なる負担を強いることは間違いないからである。

 宣祖の心の中では明への不信感が高まり、反対に肥前国への期待が膨らみつつあった。以前提案された肥前国からの申し出は、朝鮮にとっても利のある内容だったのだ。

 しかし隣国明の影響力が大きいため、表向き冊封をやめるわけにはいかなかった。

「はっ。四年前、殿下が貴国へ御成りの折、冊封に関しては時節を待つが良かろうとの御判断でござった。これは貴国の要望に応えた形にございます。朝鮮は明と陸続き。琉球とは違い、その影響も甚大ゆえ」

 宗義智よしとしは静かに、しかしはっきりと告げた。

 その言葉は柳成龍が述べてきた主張を裏打ちするものであった。宣祖はゆっくりと吟味をしているようだったが、義智に確認する。

「……既にその時が来たと、殿下は判断されたのであるな」

然に候さにそうろう(そうです)。然れど殿下は無理強いするおつもりはありません。あくまでいつでも良いとのこと。ただし、今はまさに明の冊封から抜ける機である事は間違いないであろうと。加えて、万一明が兵を挙げて朝鮮を討たんとするならば、我が国も直ちに兵を率いて明に抗うと仰せでございます」

「明がわが朝鮮に兵を?」

「然に候。宗主国である明の援軍要請を断ったとなれば、本気ではないにしろ、懲罰のために無理をしてでも大軍を繰り出してくるでしょう。哱拝ぼはいと楊応龍に対して偽りの和平を結び、その上で朝鮮に武威を示すのです」

「……」

 宣祖をはじめ柳成龍も押し黙った。

「……確かに。明国からの冊封をやめ、肥前国に|鞍替《くらが》えなど、間違いなく明の大軍が朝鮮に攻め入ってきますぞ。ここはやはり、苦しくとも援軍を出さねばなりますまい」

「右議政殿!」

 鄭澈ていてつ(右議政)の発言に柳は声を上げた。

「ではさらに1万、もう1万と要請してきたならば、どうするのですか! ? 朝鮮の国力では5万の軍兵と3か月分の兵糧でさえ厳しい。よしんば捻出できたとしても、民は困窮し、田畑は荒れ果てるのですぞ!」

 柳の言葉に、鄭澈は言葉を詰まらせる。

 現実問題として明の要求に応えることは、朝鮮にとって大きな負担なのは明白なのだ。




「しかし……明を見捨てることは……」

「鄭澈殿、見捨てると仰せならば、すでに明国はその言葉にあるように、わが朝鮮の宗主国ではありませんぞ」

 鄭澈はなおも抵抗するが、その声には力がなかった。朝鮮にすがるようでは、宗主国たりえないと言いたいのだ。

「殿下は仰せにございました。明は内憂外患を抱え、もはや外征どころではないと。しかし、威信を示すため、あるいは国内の不満をそらすため、無謀な行いに出る恐れは否めない、と。加えて然様な明国に付き従えば、朝鮮は共倒れになるであろうとも」

 義智は静かに口を開いた。

「では肥前国は、今一度聞くが、明が攻めてきたならばどうするのだ?」

 宣祖は義智に視線を向ける。

「殿下は約されました。明が朝鮮に対し兵を起こしたならば、最新鋭の艦隊と精強な陸軍をもって明に立ち向かうと。加えて朝鮮軍の近代化もお助けいたします」

「近代化とは、具体的にどのような?」
 
 宣祖の問いに、義智は懐から別の書状を取り出した。

「まずは火器の整備でございます。我が国の最新式の火器を供与し、操作方法をお教えいたします。加えて、大型船も供与いたします」

「大型船?」
 
 柳成龍が身を乗り出す。

「然に候。現在我が海軍が保有している軍船でございます。朝鮮水軍の装備と合わせることで、より強力な海防が可能になるかと」

 明をもはるかに凌駕りょうがする勢いの肥前国の軍事力は、一目瞭然であった。

「加えて、これまで我が国を介してのみ可能であった琉球との取引を、直に行えるよう便宜を図らせていただきます」

 ここまでの提案は、どれも朝鮮にとって魅力的なものばかりである。

「陛下」
 
 柳成龍が一歩前に進み出た。
 
「私は、この機を逃すべきではないと存じます。確かに明との関係は長く、その決断には勇気が要りましょう。しかし今こそ、我が朝鮮の進むべき道を決める時ではないでしょうか」

 宣祖は玉座から周囲を見渡した。

 この朝議の場で、朝鮮の将来を左右する決断を下そうとしている。200年に及ぶ明との関係を断ち切る決断は、確かに勇気がいる。しかし、今このとき以上の好機があるだろうか。

「宗殿。我が国の軍備の近代化には、どれほどの時間が必要であろうか?」

「まずは火器の運用に習熟した部隊を育成することから始めねばなりません。訓練を施す教官の養成、実戦での運用法の確立、そして部隊の編成まで……」
 
 義智は慎重に言葉を選びながら続けた。
 
「最低でも五年、理想を言えば十年はお時間をいただきたく存じます。操船技術の習得にも相応の時間が必要かと」

「五年から十年か……」
 
 宣祖は重くうなずいた。その間、明がどう動くかが問題だ。

「陛下、明の内乱は長期化の様相を呈しております」
 
 柳成龍が補足した。
 
「しかし、いずれ終息の時は来ましょう。その時までに、我が国の新たな体制を整えておく必要がございます」

「だが明は我が国への報復を……」
 
 鄭澈が口を開きかけたが、柳成龍が遮った。それを見て義智が断言する。

「我が国は明の脅威を看過いたしません。朝鮮に攻め入る明軍があれば、必ずや我が国も、直ちに出兵いたします。その覚悟を、殿下は既に決めておられます」




「……余は決めたぞ。わが朝鮮は、肥前国を宗主国とするものとする」




 次回予告 第772話 『朝鮮出兵』

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