第78回 『捕鯨船の寄港と漁場問題』 (1846/8/26)

 弘化三年七月五日(1846/8/26) 京都 <次郎左衛門>

 今年初めに事業として展開を始めた捕鯨船団が帰ってきた。
 
 8隻の65トン級の捕鯨船は船団を組み、玄界なだ・五島灘・角力灘すもうなだといった通常の漁場をはじめ、南シナ海や太平洋にも進出したのだ。

 日本人の海外渡航は禁じられているが、航海を禁じているものではない。

 65トンの船でそんなに遠洋まで、と思うかもしれないが、コロンブス艦隊の旗艦であるサンタ・マリア号が100トン程度で、残りのニーニャ号とピンタ号も60トン程度だ。

 深澤組が廃業する前、全盛期は春に北上する鯨をとる春浦と呼ばれる漁場と、冬に南下する鯨をとる冬浦とで操業をしていたが、メインとなるのは冬浦だった。

 鯨は夏の間に冬の海でたくさん魚を食べて、脂ののった状態で南下するので、冬浦のウェイトが大きかった。

 その後他業者が増え、壱岐や対馬の冬浦での操業が難しくなると資金繰りが厳しくなって、藩への貸し付けとともに収入も減っていったのだ。

 捕鯨は藩ごとに漁場の権利が定められていて、大村藩は松島・|蛎浦《かきのうら》・江島・平島などが漁場だ。新深沢組が操業を再開するまでは、他藩の捕鯨組から利用料をとり、先納銀として納められていた。

 しかし、今回の深沢組の帰港に際して判明した事がある。

 角力灘・五島灘から玄界灘における春浦・冬浦ともに、不漁であるという事だ。北上してくる鯨が少なければ、当然南下する鯨も少ない。

 原因はオホーツク海での欧米の捕鯨によって、日本海側を回遊する鯨の母数が激減したためだった。

 予想はしていたが、もはやこれまでと同じように日本近海の漁場では、他藩の鯨を獲るより他の手段はなくなっていたのだ。
 
 少ない分母を根こそぎ奪うか、北の漁場へいくしかない。

 しかし、日本の捕鯨船に比べ大型とは言え、欧米の捕鯨船に比べればはるかに小さいのだ。

「まじか……」

 がっぽがっぽを夢見ていた俺としては、文字通りがっくりだ。出禁になる覚悟で、福江藩(五島)や平戸藩、対馬藩の漁場で獲りまくるか? 新型捕鯨船ならできる。

 うーん、まあ、自由競争原理でいうと……別にいいか? どうかな。

 よし。殿にはまずやってみて、他藩から苦情が来たら対処するようにすればいいのでは? と答えよう。それから入漁料に関してだが、概ねどの浦も1日につき銀115匁。

 決して安い金額じゃない。

 鯨一頭とれれば七浦潤う。うーん、享保年間のレートで言うと……4,000両は……天保期と比べると……約9,267両! 金の含有率が減っているからね。

 享保期の金貨1両に対して金の含有量は15.31gで、天保期には6.36g。
 
 こういう改鋳を江戸時代は何回もやっているんだ。含有率を下げてその差益で財政赤字を埋める。

 倍違うってどうなん? と思うけど、今の相場で考えると結果オーライかな? 
 
 今のところ、船や設備やその他は全部藩が出している。捕鯨で利益が出たら深澤家への借財の返済に充てる計画であった。

 話を戻して入漁料の件だけど、実際のところ肥前唐津の呼子の通鯨数は年間で200頭強。これはあくまで呼子沿岸で確認された数字だから、西海漁場全体の分母はもっと多い。

 大村藩は松島・崎戸・蛎浦・江島・平島を操業地としているけど、他の藩だとおおよそ15カ所だ。その全部に入漁料を、と思ったけど、沖合にいる鯨はそもそも入漁料払わないといけないのか?

 素朴な疑問が残るが、仮にその15カ所で1日に1回入漁料を払ったとして、1日に銀1,725匁で月に51,750匁だ。年間で621,000匁で9,553両になる。

 人件費や様々な経費を入れるとその分が赤字だ。

 ただ、実際にはその15カ所全部で毎日操業するわけではないからね。8隻が分かれても2組だから、そうなると637両だ。これで1頭とれれば、十分に元がとれて利益になる。

 それに1年365日操業をする訳でもないし、網掛け突き取り捕鯨法での捕獲率は、良くて2割強だ。アメリカ・ノルウェー式の新式の捕鯨法なら確率も高い。

 回遊する鯨も対馬海峡の朝鮮半島側と日本側、そして壱岐水道とに分かれているので、約3倍になる。

 結果今回は4頭捕獲で37,068両となり、入漁料(637両)を含めた人件費がかかったようだ。

 ※人件費内訳
 
 大別当(陸上の責任者)2名
 別当(補佐)3人
 若衆50人、ちょう役3人、魚切り18人、筋こさぎ12人、飯炊き2人、茶廻し2人、支配人(各部門責任者)8人、骨油掛り人、番人、大工、鍛冶屋、おけ屋、網大工を含めて587人(乗組員含む)。

 日雇いを入れて合計800人程度。16,255両銀24匁に491両銀34匁。総合計16,746両銀58匁。

 利益は20,321両銀7匁となって、深澤組への借財返済に1万両を充当して残金が10,321両。5年で完済可能だな。
 
 今は完全に官営だけど、深澤組に払い下げて民間事業にすれば、この漁獲量で14,827両だ。(四公六民)
 
 平戸藩なんかは鯨組が2組あって、大きい方に75,000両、小さい方に15,000両。合計で90,000両も税金をかけていたようだから、とんでもない税収だって事がわかる。
 
 獲れても、獲れなくても、ね。

 ああ、それからすぐには無理だろうけど、10倍程度に増やそう。そうすれば年間20万両くらいの儲けになるぞ。

 ぐふふふふふふふ……。




 ■大砲鋳造方

 16回目の操業を行った。鉄の使用量は前回と同様である。溶解の具合もほぼ同じで、36ポンド砲1門ができた。所要時間は各炉に7名を配置し、80~100時間程度であった。




 近ごろ殿のお加減よろしからず候。

 御さじ医師の長与俊達どのいわく、殿にはもとより宿疾(持病)の気あり候の間(なので)、医学方副頭取の尾上一之進殿にも尋ねき候。

 一之進殿の考えも同じく宿疾にて完治は難し候の間、正しくお召し上がりになり正しくお休みになり、しかして日ごろより心労を負う事なく、心安らかにすべしとの考えに候。

 しかれども昨今の情勢をみるに、内憂外患にて万難を排し事に臨まねばならぬと存じ候。

 身体虚弱なる藩主様におかれてはご隠居あそばし、新しき主君にて国難にあたるべしとの考えの者もおり候。

 殿のご健在にてかような儀を発するは不敬千万に候へども、この上は家老全員にて万機公論に決すべしと存じ候。

 京にて公務にあり、多忙とは存じ候へども、急ぎ帰藩を願いたく存じ候。恐々謹言。

 六月二十七日

 大村彦次郎友彰                                                                                                                                                                                                                                                                                              

 太田和次郎左衛門殿




「なにいいいいいいいいいいい!」




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