第9話 『キスと四角関係と悠真の野望』

 ~1984年(昭和59年)12月25日(火) 白石宅 ある日の夕食後の台所  
 
 食器を洗う音が静かに響く中、凪咲なぎさは少しためらいがちに母親に近づく。その表情には、何か言いたいことがあるような感じだ。

「ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」

「えー、なーに?」

 母親は手を止め、優しい目で凪咲を見た。

「その……男の子とキスするのって、どんな感じなのかな?」

 凪咲のほおが少し赤くなる。母親は一瞬驚いたような表情を見せるが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。

「まあ、急に何を聞くのかと思ったら。ふふふ……でも、そういう興味が出てくる年ごろよね」

 母親は少し考え込むように目を細めて続ける。

「そうねえ。人それぞれだと思うけど、私の経験では、ドキドキして、他に何も考えられない感じだったわ。でも、大切なのは相手のことを本当に好きかどうかよ」

 凪咲は真剣な表情で聞いている。その瞳には好奇心と不安が混ざっているようだが、母親は優しく続ける。

「でも、凪咲はまだ小学生なのよ。急ぐ必要はないわ。自分の気持ちをしっかり確かめてからでも遅くない ……ところで、気になる男の子でもいるの? 誰なの?」

「え、ええと……別に誰でもないよ。ただ、ちょっと気になっただけ」

 凪咲は急に慌てたような様子を見せる。そんな凪咲を見て、母親は優しく頭をなでる。

「ふーん……そう。何かあったら、いつでも相談してね」

「……うん」

 母親は少し声を落として、凪咲の目をしっかりと見つめる。

「それと凪咲。こういう話は女同士の秘密よ。お父さんには内緒ね!」

 凪咲は少し驚いたような表情を見せるが、すぐに微笑んでうなずく。

「うん、わかった。ありがとう、お母さん」




 ■遠野家 美咲の部屋

 机の上には開かれた教科書と、半分も進んでいないノートが広がっている。美咲は椅子に座ったまま、天井を見上げるように首を傾けていた。
 
「ママー、ちょっといい?」

 美咲の声が部屋の外に向かって響くが、その声には少しだけ緊張感が混じっている。

「どうしたの、美咲?」

 母親が部屋に入ってきたが、その表情には少し心配そうな色が浮かんでいる。美咲は少し照れくさそうに、でも好奇心に満ちた目で母親を見つめる。

「あのさママ。初めてキスしたのいつ?」 

「まあ、突然ね。そうねえ……高校1年生の時だったわ」

 母親の目が少し丸くなったが、すぐに懐かしそうな表情で答えた。
 
「へえ! どんな感じだったの?」

 美咲の声には興奮が混じっている。母親は少し恥ずかしそうに笑った。

「正直、緊張して何も覚えていないくらいよ。でも、すごくうれしかったのは覚えているわ」
 
 美咲は興味深そうに聞いている。その目には何か隠し事をしているような色が浮かんでいて、母親は少しだけ心配そうに美咲を見た。

「どうしたの? 何かあったの? それとも、気になる男の子でもいるの? 誰なの?」
 
 美咲は急に慌てたような様子を見せる。

「ううん、なんでもない。ただちょっと気になっただけ……あ!」

「どうしたの?」

「あのねママ、もし、もしもだよ。例えば好きな子が、他の子とキスしてるの見たら、どう?」

 母親は一瞬驚いたような表情を見せるが、すぐに優しい目で美咲を見つめ返した。

「そうね……」

 母親は言葉を選ぶように少し間を置く。

「正直、とても辛いと思うわ。でも美咲、本当にキスしていたの?」

「え? どういうこと? 違う違う! 例えばの話だよ~」

 慌てて仮定の話だという事を強調する娘に対して、母親は微笑みを浮かべながら続けた。

「わかったわ、例えばの話ね。でもそういう『例えば』の状況でも、見た目と実際は違うことがあるのよ」

「どういうこと?」

 首をかしげる美咲に対して、母親は穏やかな口調で説明を続ける。

「例えば、顔が近づいただけかもしれないし、何か内緒話をしていただけかもしれない。遠くから見ると、キスに見えることもあるわ」

「へえ……」

 美咲が少し考え込むような表情を見せると、それに……と母親が慎重に言葉を選びながら付け加えた。

「たとえ本当にキスしていたとしても、それが全てを意味するわけじゃないわ。人の気持ちは複雑だし、状況によっても変わることがあるの」

 美咲は母親の言葉を真剣に聞いている。その目には好奇心と不安が混ざっているようだ。

「じゃあ、もし……もし本当にそういう場面を見ちゃったら、どうすればいいの?」

 かすかに震えが混じっているのを感じた母親は優しく微笑む。

「そうねえ……まずは冷静になること。そして、もし本当に気になるなら、直接その人に聞いてみるのも1つの方法よ。でも、責めたりしないこと。そして何より、自分の気持ちを大切にすることが一番大事」

「うん……わかった」

「こういう話、気になることがあったらいつでも相談してね。一緒に考えましょう」

 美咲は少し照れくさそうに、でも安心したような表情で母親を見上げる。

「うん、ありがとう、ママ」

 母親は美咲を軽く抱きしめた。その瞬間に美咲の表情には安堵あんどの色が広がる。仮定の話として始まった会話だったが、美咲の心の中で何かが整理されたようだった。

「で、誰?」

「ママのバカぁ!」




 ■太田家 休日の午後

 リビングのソファでテレビを観ている純美と母親。ドラマでキスシーンが流れた直後、純美が突然口を開く。

「キスって……どんな感じなの?」

「えっ? どうしたの、急に」

 小さい声で少し震えているような純美を見て母親は驚くが、純美は真剣な表情で母親を見つめる。その目には何か悲しみのようなものが浮かんでいた。

「ただ、気になって……」

 母親は少しだけ考え込むように首をかしげて目を細める。

「そうねえ。人それぞれだと思うけど、私の場合はドキドキして、でもすごく、あたたかい気持ちになったわ」

「へえ……」

 純美の声には力がなく、その表情には何か悲しみの色が浮かんでいる。変だな、と感じた母親は心配そうに尋ねる。

「純美、何かあったの? もしかして……誰か好きな子でもできたの?」

 純美の目にうっすらと涙が浮かぶ。

「う……うん。好きな子が……他の子と……」

 言葉が途切れ、純美は一瞬躊躇ちゅうちょするように目を伏せる。そして、小さな声で続けた。

「でも、多分なの。ばっちりキスしているところを見たわけじゃないの」

 純美の指が不安そうにソファの布地をいじる。

「その、顔が近かった……だけかも。……あれ……ホントにしてたのかな……」

 母親は純美の髪を優しくなでながら、言葉を選ぶように少し間を置いてから話し始めた。

「そうね、純美。まずはゆっくり息を吸って、うん、吐いて……落ち着くことが大切よ。そして、自分が見たものが本当に何だったのか、ゆっくり考えてみることね。見間違いの場合もあるし、距離や角度によって見え方が変わることもあるの」

 純美は静かに聞いている。母親は続けた。

「それから、もし本当に気になるなら、その人との接し方を大切にしながら、さりげなく様子を見るのもいいかもしれないわ。でも、相手を追い詰めたり、責めたりするのは避けるのよ」

「でも、もし本当だったら……私……」

 母親は純美の手を優しく握る。

「そのときは、純美の気持ちを素直に受け止めることが大切よ。悲しいと感じても、怒りを感じても、それはあなたの正直な気持ち。でも、その感情に振り回されないこと。時間が解決してくれることもあるわ」

 純美の目に、少しずつ理解の色が浮かぶ。

「それでもまだ、その子の事が好きなら、自分の気持ちに正直になりなさい。何があってもお母さんは純美の味方よ」

 母親は優しく微笑む。

「ありがとう……お母さん」




 ■風間家

 最大のイベントとも言うべき修学旅行が終わって3か月がたった。

 オレにとって、ある意味前世の旅行以上の一大イベントになった訳であるが、当たり前だが3人とは微妙な関係が続いている。凪咲はなにもせずにそのままだったのだが、2人にはしっかりと話をした。

 その結果、微妙な距離感が続いているのだ。

 うん、やってしまったな。

 酒は……女がいる前で飲んじゃダメだ。ていうか、飲んでから凪咲が来たから、ある意味これも事故じゃん! と言い訳してみるものの、素直に言っても納得はしてもらえないだろう。

 9月は何もなく、10月の運動会は、そもそもオレの居場所じゃない。足の速いやつ勝手にやってくれって感じで適当に流した。文化祭なんて小学校はないから、そのまま11月、12月と過ぎ、あっという間に25日の2学期終業式だ。

 冬休みに入り、年末年始を迎え、3学期が始まればもう卒業だ。

 正月の初売り。これ、実は今まで1回も行ったことがないんだが、今年は行くと決めていた。夏休みの小遣い(じいちゃんからのバイト代)の残りや、こつこつ貯めてきたお金で買うものがあったからだ。




 それは、エレキギターである。




 前世のオレは、バンドというものを高校に入ってから知った。

 というか、中学ではそんな文化が全くなかったのだ。なんでだろう? それも都会の高校ではない。地元の高校で、先輩や同級生が組んでいるバンドがあったんだが、全部が他の中学の人ばかりだった。

 例え高校から始めたとしても、顔を知っている同じ中学の先輩なんていなかったのだ。と、言う事は、オレが通っていた中学だけが遅れていた?(バンド経験の有無に遅れも早いもないが)

 そこでオレはその経験から、今から楽器を始めておこうと考えたのだ。

 しかも、バンドマンはモテる。スポーツで上位カーストに入れないのはわかりきっていたから、転生してから音楽の授業だけは真面目に受けたのだ。

 中学に入ってからは、音楽と英語を最優先科目にする。洋楽を歌うなら、必須だ。もちろん成績もトップクラスで将来の選択肢を増やしておく必要がある。正直なところ、運動部なんてやっている暇などないのだ。

 しかし、ここで1つ問題がある。

 オレが通う中学は、全生徒が必ず何かの運動部に入らなければならないという決まりがあったのだ。なんでそんな校則があるのかは不明だが、オレはそんな無駄な事に費やす時間などないのだ。

 人前で、せめて高校の文化祭で注目を集めるバンドを作るには、相応の実力が必要だ。だから中学の頃からやっておく必要が絶対にあるのだ。




 卒業までの3か月は、バイト(?)と音楽に明け暮れよう。




 次回 第10話 (仮)『正人よ、またお前か。4対1はさすがに卑怯じゃないか?』

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