第206話 『長崎の開港と居住権』

 安政三年十月十三日(1856/11/10) 

「さて、まず要求したいのは、長崎の開港と米国人の居住権である」

 ハリスが口火を切ったこの議題については、イギリス・フランス共に要求に差異はなく、開港と居住権を求めるものであったが、しょっぱなから交渉は難航した。

 提議したこの内容の根拠については次の通りである。

 ・日本に開港を要求したのは捕鯨船他の必要物資の補給のためである。
 ・アメリカ人が(その他の外国人が)、難破・遭難した場合には、下田と箱館だけでは対応できない。
 ・清国との交易を行っており、その途上にある長崎を開港してもらったほうが、都合がいい。

「すでに下田と箱館を開港しているのだから、オランダに開放している長崎を、同様に開港しても問題ないでしょう?」

 ハリスは何の問題もないかのように、理路整然(と思っているのだろう)と語った。

 話を聞いていた全権の下田奉行、井上信濃守清直と中村出羽守時万ときつむは、万次郎の通訳を聞きながら時折笑い、聞き終えた後に互いにうなずいては清直が発言する。

「これは異な事を承る。先の条約締結のみぎり(時)、公儀はまず下田や箱館ではなく、五箇年の間は和蘭オランダ同様長崎を開港の場としたいと、申し伝えたと記憶しております。然れど、その砌は如何いかでも(どうあっても)すぐに開港せよと仰せになり、下田と箱館の開港とあいなったのではございませんか? 何故なにゆえいまさら長崎の開港を求められるのか?」

 一瞬の静寂が訪れた。

 ハリスは表情を引き締め、日本側の強固な姿勢に直面し、交渉の難しさを改めて実感したようだ。中村出羽守時万ときつむは、同僚の言葉に頷きながら、ハリスの反応を注意深く観察している。

 彼の目には、相手の次の一手を見極めようという鋭い光が宿っていた。
 
 ハリスは深く息を吸い、そして吐いた。言葉を選びながらゆっくりと口を開く。

「確かに、以前の交渉ではそのような経緯がありました。しかし、世界情勢の変化に伴い、長崎の開港が両国にとって有益であると考えるに至ったのです」

「……両国にとって?」

 清直と時万はお互いに見合い、笑い出しそうになるのをこらえている。しばらくして清直が返答した。

「Mr.ハリス。正直な考えを申し上げてよろしいか」

 通訳を通じて聞いていたハリスは大きく頷き、清直は発言した。

「まず、日本は下田と箱館の二港の開港ですら望んではおらず、条約など結ばずにすめば、それで良かったのです。通商などもっての外で、国内で全て事足りております。長崎開港が如何にして我が国に益をもたらすか、某には全く考えが及びませぬ」

 清直の言葉の後、場の空気が一層緊張感を帯びた。
 
 日本側の強硬な姿勢に直面して、ハリスは心の中でわずかに息を整えた。その表情には冷静さを維持しようとする意志が感じられる。




 史実では、日米和親条約補修協約(下田協約)の締結の経緯としては、安政二年十二月二十三日(1856年1月30日)調印の、日らん和親条約がベースとなっている。

 先に締結された日米和親条約の片務的最恵国待遇条項によって、同様の権利を有するというものがあったのだ。

 しかし、その条文はない。

 オランダは日本と日蘭和親条約を結んでいるが、それは弘化に結んだ日蘭通商条約と比べて、通商条約が優先されるものであった。
 
 そもそも和親条約は下田と箱館について書かれているので、長崎における日蘭通商条約には抵触しない。

 そして仮に片務的最恵国の条文があったとしても、日蘭通商条約ははるか以前に締結されているものであるから、それに準拠してアメリカと同様の条約を結ばなくてもよいのだ。

 次郎は黙ってこのやり取りを聞いていたが、クルティウスも同様だ。余計な事をしゃべって自国に不利益になってはならない。沈黙は金である。




 ハリスは机の上に置かれた資料を指で軽くなぞりながら、次の言葉を慎重に選ぶ。彼は自分の要求が容易に受け入れられるものではないことを理解していたが、それでも彼の使命は交渉を進展させることであった。

 将軍に親書を渡すために江戸に参府し、この条約を締結しなければならない。

「清直殿のお言葉、重く受け止めました。確かに、日本が自給自足の体制を維持していることは存じております。しかし、国際社会における位置づけが変わりつつある今、この変化を拒むことが将来的にどのような影響をもたらすのか、冷静にお考えいただきたいのです」

 英語でのやり取りであるから、隣のイギリス全権のジェイムズ・ブルース や、フランス全権のジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵も会話の内容を理解している。

 クルティウスは日本語を解すが、二人とも英語は堪能である。外交官として赴任地の言語はもちろん、いわゆるグローバルスタンダードの言語、英語は話せたのだ。

「ハリス殿、よろしいか?」

 ブルースがハリスに言葉を投げかけ、発言の許可を求める。基本的にオランダ以外の3か国の思惑は一致しているので、ハリスがしゃべり、他の二人が必要に応じて発言する流れのようだ。

「清直殿、時万殿、貴殿等は今、清国がどのような状況になっているかご存じですかな?」

「「!」」

 ブルースの言葉に日本側の二人は驚いたが、それは横にいたハリスやグロ、クルティウスも同じである。

 まさか、その路線で交渉するのか? 全員がそう思った。

 中国は当時アヘン戦争で敗北し、香港を割譲させられた挙げ句、広州・廈門・福州・寧波・上海の五港を開港していたのだ。

「清国は貴国とまた違い、独特の考えを持つ国でありました。まあ、同じように最初は交渉も難航したのですが、残念な事に、本当に残念な事ですが、武力をもって解決せざるを得ない事態となり、現在に至ります」

(クルティウス殿、どういう事でしょうか? イギリスは武力行使をチラつかせていますが?)

(わかりません。ただ、本国の了解は得ていないと思われます。今ここで武力行使によって開港させても、後々影響を残します。それにアメリカやフランスも初耳のようです)

 次郎は目でクルティウスに合図を送るが、クルティウスも黙ってわずかに首を横に振るのみである。互いに対面で座っており、クルティウスは相手側にいるのだ。
 
 これ以上の意思の疎通は不可能である。




「それを、……今ここで言いますか?」

 清直と時万は毅然きぜんとした態度でブルースに対して居住まいを正し、ゆっくり、はっきりと述べた。

「武力をもって解決せざるを得ない事態とは、アヘンの事にございましょう。あれは体を毒する劇薬。斯様かようなものを商いの主たるものとし、応ぜぬからと戦をしかけたのは、貴国の方ではないのですか? 我が国にも同じようになされると?」

 ! ! ! !




 一触即発の空気が張り詰め、交渉は一気に破談に向かうかと思われた。




「あいや待たれよ! 信濃守殿(井上清直)、どうか御静まり下さいませ! Dear Brooke, let’s remain calm. Let’s take a short break.(ブルーク殿、ここは冷静に。いったん小休憩といたしましょう)」

 次郎の声で、交渉は休憩を挟むこととなった。




 次回 第207話 (仮)『武力衝突! ?』

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