天保十年十一月二十八日(1840/1/2) 玖島城下 次郎邸とお里邸
「えーっとまず、菌糸を手に入れなくちゃいけないけど、ホームセンターはないよね。ハイハイ……」
お里は次郎から頼まれていた椎茸栽培のための準備に余念がない。まず第一に培養するための温度と湿度だが、温度計は水銀温度計をみんなで作っている。
湿度もアウグスト湿度計を自作しているのだ。
原理がわかれば材料があれば作れる。もちろん、ガラス管などは用意してもらった。次郎は見ているだけだったが、そういう後方支援をしている。
お里邸には椎茸の菌糸を培養するための小屋が新設され、湿度と温度が管理されている。菌糸の発育に最適なのは18~20℃で、湿度は65~75℃である。
菌糸を採取する方法はキノコ(子実体)、胞子、基材(キノコが生えている木)からの3種類があるが、胞子から採取して培養するのが一番難しい。
そのためキノコと基材からとした。
キノコ自体を確保するのも、基材を確保するのも同義なので、並行して行った。要するにキノコが生えている木は、中に菌糸ができあがっているのだ。
最初の難関はそれを見つける事だったが、次郎とお里の二人で探した。信之介と一之進はそれぞれ研究があるので外すことができないが、次郎は違う。
城詰めという名目で城下に住んではいるものの、その殖産方という職務上、城でやる仕事より外回りや家でやる仕事の方が多かったからである。
「なかなか見つからないね、とお……次郎君」
「うーん。場所が悪いのか、季節が悪いのか。よくわからん」
完全に次郎は専門外だ。
「季節的にはギリギリだと思うよ。ちょっと遅いけど。秋子で」
「秋子?」
「人の名前じゃないよ。秋に採れるから秋子。えーっと10月末から12月初め、あ、旧暦だから9月末から11月初めか。だからちょっと遅いかな」
「まじかあ、これで採れなきゃ来年?」
「そうなるかな。いまの旧暦の1月から3月の中旬が春子」
「なんと言うか安直なネーミングだけど、採れないとやばいな。春まで何にもできないね」
川で助けたお里であったが、次郎は前世の記憶を思い出していた。
高校3年の夏休み、東京の高校に進学していた別の中学の女の子で、一夏の思い出になった女の子である。
洗練された雰囲気は、当時の次郎(亨)を舞い上がらせるのには十分だった。
しかし今世では次郎は既婚者で子供もいる。お里もそれをわかっているから、それ以上に距離を縮めようとはしないのだ。
椎茸はクヌギ・コナラ・ミズナラなどの広葉樹に生える。2人は数日間場所を変えながら探索して、なんとか必要量を手に入れた。
基材となる木はその場で切り倒し、内部を切り刻んで壺に入れて持ち帰った。椎茸はそのまま壺に詰めて同じように持ち帰って、軸を切り裂いて分離して培養したのだ。
これもスーパーに売っている椎茸を考えれば簡単なんだろうが、幕末にそんなものあるわけがない。できる物は自分たちで作るしかないのだ。
ちなみにビーカーや試験管は、大量に作ることはできないが、城下のガラス職人に頼んでできるだけ多く作って貰った。
細かな細工がないぶん安上がりだが、大量に発注したのでそれなりの金が動いたのだ。
近代的なガラス製造はおいおいやるとして、必要に応じて作ってもらった。一之進の点滴用のガラス瓶もそうである。
どれも装飾がない実用的なものばかりだ。
鍋に水を入れて沸かし、芋の皮をむいて細切れにして入れる。
沸騰させ30分ほど煮た後に、中身をとりだして再び水を加えて適量にする。
そこに粉状にすりつぶした寒天を加えて培地をつくるのだ。再度沸騰させた後、不純物をろ過して完成である。
そのろ過液を試験管に分けて、菌糸培養の容器とする。
どのくらいの水と芋を入れたら最適なのかは、正確にはわからない。ただしお里が前世で実験していた記憶をもとに、おおよそ500㎖に150gの芋とした。
そこに寒天12~3g、砂糖10gを入れた。
砂糖も結構な貴重品だ。やはり何をするにしても金がかかる。砂糖は生産効率が上がって流通コストが抑えられれば安くなるだろうが、ここでそれを論じても仕方がない。
ちなみに試験管の蓋には綿を利用した。綿布団に入れるための、現在でいうところの脱脂綿だ。厳密には違うが、似たようなもので試験管の蓋とした。
ゴムやコルクなども考えられたが、一番簡単で安易なものを採用したのだ。綿も布団や綿入れに加工されるまえの物なので、加工工場へいって直接仕入れた。
その後、お里は悩んだが、できる方法は一つしかなかった。
常圧殺菌法である。つまるところ、鍋に入れて熱湯消毒の要領で試験管内の雑菌を死滅させるのだ。
「うーん。これもないものねだりなんだよねえ……」
専門的な知識がない次郎はもっぱらサポート要員である。
殺菌方法は3種類あるが、実行可能なのは熱湯消毒しかないのだ。
『高圧殺菌釜を使って120℃で30分の殺菌が基本です。電力式とガス式がありますが、ガス式の方が経済的です』という何かの説明書をお里は思い出していたが、ガスも電気も、そもそもない。
電子レンジでの殺菌も、同様だ。
そうやって熱湯で殺菌した試験管に菌糸を入れ、培養スタートである。
ある程度菌糸が増えて成長が確認されたら、さらに増やすために試験管から容量の多い細口のガラス瓶に移す工程になる。
寒天の代わりにおがくずを入れた瓶を使うだけで、他はかわらない。
おがくず瓶には栄養剤として米ぬかを混入する。
そして種駒にするための細切れにした木片も忘れない。殺菌したおがくず瓶に、試験管で培養した菌糸を移し、同じように管理して増やすのだ。
十分に菌糸が成長して種駒ができあがれば、これを木に打ち込んでいく。もうあと少しである。
■ある日
「おはよー。ああ、なんか眠いね」
「ああ、おはよう」
次郎が朝食を終えてお茶を飲んでいた。
「ん? あれ? なんか臭わない? この匂いは……」
スンスンと鼻を動かして匂いを嗅ぐお里が、恐る恐る聞いた。
「ねえ、朝ご飯何食べた?」
「ん? 納豆と味噌汁とあとは……」
「ぎゃあああああああ! 馬鹿あ!」
ばちいいいいいん!
お里は秒で退散したのであった。
次回 第39話 『アヘン戦争と国内事情』
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