第380話 遠い西の彼方へ。長宗我部元親の驚嘆の九州肥前紀行②

西国の動乱、まだ止まぬ

 永禄十二年 十一月二十日 午一つ刻(1100) 府内

「これをこうやって送るのです」

 そう言って宗悦は代金と書面を係に渡す。係は料金を確認して書面を伝達役に渡し、伝達役は何やら小屋を出て近くの見張り台まで走る。

 見張り台の上では係は旗を振っている。

「領内には半里から一里おきに信号所と、二里ごとに伝馬宿がございます。馬、飛脚、信号、その他最も早き策をもって届けるのです」

 三人とも開いた口が塞がらない。

 ■二十一日 巳の一つ刻(0900) 

 翌日、朝食を終えて、駅馬車を使って肥前諫早へ向かう。

 主君と家臣が同じ馬車に乗るなど考えられないが、少し麻痺してきたのか、それとも状況をよく分析したいのか、元親と家老二人は小型の馬車へ、従者は大型の一般馬車に乗る。

「なんだこの乗り物は! 日の本にはこのような乗り物はないぞ。牛車のごとき車に馬をつないでおるのか? おい、御者よ、この馬車なるものは、一刻にどれほど進むのだ?」

 元親は、車両と御者の座席の間の御者窓を開けて、馬を走らせている御者に聞く。

「そうですね……。一刻だと、五里(20km)ほどでしょうか」

(なんと! 一刻で五里も走るのか? なんという速さだ)

 二里ごとに馬車の馬を変え、一行はその日のうちに肥前鹿島へ到着した。

 ■二十二日 巳の一つ刻(0900) 諫早

 肥前鹿島から諫早までは十一里(44km弱)ほどだが、一刻半(3時間)もかからなかった。

「よう参られた、宮内少輔どの。どうですかな、わが都諫早は。ささ、長旅疲れたでしょう。こちらへどうぞ」。

 諫早城下、城のすぐ近くの停車場で降りると、純正が出迎えていた。挨拶をすませ城内へ向かう。その後一行は昼食をとって城下町を見聞し、一泊した。

 翌日は純アルメイダ大学や造船所、兵器工廠の見学である。

 もちろん軍事機密に触れる部分は隠されたが、海軍兵学校のある佐世保湊や陸軍士官学校のある相浦も訪れた。

 ひととおり小佐々の文化、教育、経済、軍事のレベルの異質さに触れる事となったのだ。

 土佐の岡豊城下とは対照的に、小佐々領である浦戸は賑わいを見せていた。しかし、その賑わいも豊後の佐伯の湊、そして府内の湊に比べれば、まだまだである。

 これらの湊は京や大坂などの畿内の町と、肩を並べるほどの繁栄を極めていたが、肥前の諫早は、その全てを凌ぐ存在であった。

 諫早の町並みはまさに異国である。

 見たこともない壮麗で壮大な天守を持つ、諫早城を中心に形成された町並みには南蛮の風が吹き込み、その文化が深く根付いている。

 洋式の建築物が立ち並び、町のあちこちで新たな技術や発明が生まれていた。

 ガラス窓の明るさ、コンクリート舗装の道路、そしてその上を馬車が行き交う様子は、まるで同じ日の本とは思えないほどだ。

 商人たちは新しい商品を持ち寄り、さまざまな国々からの情報が交差していた。

 こうした諫早の栄えは、近隣の国々からも注目を浴び、多くの人々が訪れる場所となっている。

 その中心には、南蛮文化を受け入れ、新たな技術や科学の発展を推し進める意欲的な領主、小佐々純正の存在があったのだ。

 純正の先見の明(現代知識?)と行動力が、この地を畿内に匹敵する、それを超える繁栄へと導いていたのである。

「弾正大弼どの、貴殿はこのような政を行い、何を求めているのですか?」

 元親は一番聞きたかった事を、旅の最後に聞いた。

「なに、ですか……。うーん、まあ、そんな仰々しいものではありません。みんなが平和で豊かに、幸せに楽しく暮らせる世の中でしょうかねえ」

「それは、日の本を統べる、または従える、そのような事でしょうか」

 元親は純正の野心について、率直に聞いた。

「え? 統一? ないないない。面倒くさい。ただ成り行きでね。平戸の松浦なんか二度も襲ってきたから仕方なく滅ぼした。有馬や大村は父祖からの主君筋だったけど、あまりに傍若無人で狙ってきたから、これも滅ぼした」

 純正は肥前の一国人だった頃の事を思い出しながら話す。

「龍造寺は、憎かった訳じゃない。ただ、やっぱり攻めてくるから仕方なくね。息子の政家、ああ今は俺が偏諱して純家だけど、家も残したし、鍋島直茂にいたっては家老です」

 わはははは、と笑いながら純正は話す。

 昔話が楽しそうだ。大友も、われらも、伊予も薩摩も伊東も、全部同じだという。
 
 種子島を飛び越えて、琉球と交易し、台湾やフィリピンに拠点をつくり、多角的に交易を行っている。

『天下布商』

 純正が掲げているスローガンである。経済、商業の力で世の中を豊かに、平和にしようとの考えだが、そう上手くはいかない。

 近隣からは恐れられ、攻撃の的になって現在に至っているのだ。

 元親は決めた。土佐を、四国を戦のない平和な世にしようと心に決めて走ってきたが、別にそれは自分でなくともよい。

 純正なら自分が描いた世の中を作ってくれる気がした。

 安芸郡は、もういい。やりたい様にやらせよう。

 長岡郡も、香我美郡も吾川郡も土佐郡も、四郡すべてで純正の教えを乞えば、豊かに、平和にできると考えたのだ。

「宮内少輔どの、われらは一戦交えた過去がござる。しかしながらこうして、直接お話しできる機会に恵まれました。もし、宮内少輔殿のお考えが、それがしと同じなら」

 それがし、などという使い慣れない一人称を純正は使ったが、その方がいいと思ったのだろう。

「それがしに力を貸していただけませぬか。やり方が多少、旧来とは違いますが、ご納得いただける内容と存じます。安芸の一揆の件は知っております。仲介もいたします、いかがでしょう」

 純正としては、長宗我部が実力行使にでるのなら、仕方がないと思っていた。

 しかし、戦わないに越したことはない。元親は考えていたが、純正からの提案があるとは思わなかったので驚いた。

「それがしも同じように考えておりました。委細は国元に帰って協議しなければなりませんが、問題ないでしょう。では、安芸郡の件、ひとつよろしくお願い申し上げます」

 こうして小佐々、長宗我部両家による、《《本当の和議と和睦》》が成立した。

 小佐々の風下にたつ、という考え方もあるだろうが、自らの主権を尊重してくれるのであれば、問題ない。

 元親はそう考えて、結論づけたのだ。

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