嘉永七年十月十一日(1854/11/30) 長崎 オランダ商館
「商館長、今後はどうするのですか?」
スンビン号で日本にやってきたファビウス中佐は、クルティウス商館長に尋ねた。
「どう、とは? 通商に関して言えば、大村藩は大得意様であるし、幕府は今までと変わらない。大砲や軍艦の発注、武器関連に、今までより輸出を増やし、さらに輸入も増やすという流れだ。わが国にとっては追い風だ」
クルティウスは窓際の植木鉢の花に水をやりながら、話半分に聞いている。
「貿易の件は小官も心配はしておりません。もとより軍人ですから口を出すべきではないと思うのですが、こと政治的な判断を迫られた場合の事です」
「例えば?」
クルティウスは即座に聞き返した。
「例えば武器です。片や正式な国家であり、片や領主です。いずれかを取れ、となった場合はどちらを取るのですか? 例えば幕府から、軍艦や大砲は諸藩に売らずに幕府にだけ売るように、と求められたらどうするのです?」
クルティウスは水やりを止め、ゆっくりとファビウス中佐の方を向いた。中佐の問いかけは、オランダ東インド会社が長年築いてきた日本との関係の根幹に関わる重要なものだった。
「ふむ……中佐、その質問には簡単に答えられませんね」
とクルティウスは言う。
「我々の立場は日本や大村藩だけでなく、イギリスやアメリカ、フランス・ロシアなどとも複雑に絡み合ってくるのです」
商館長は窓際から離れ、室内を歩き始めた。
「大村藩との関係は長く、信頼に基づいています。一方で、幕府は日本全体を統治する存在です。どちらかを選ぶというのは、我々の利益を損なう可能性があります」
ファビウス中佐はクルティウスの言葉に耳を傾けながら、自身の立場を考えていた。軍人として、彼は明確な判断と行動を好む。しかし、ここでの状況は複雑だ。
さらに……とクルティウスは続ける。
「まず、日本と大村藩ですが、決定的な違いがあります。それは、武器や軍艦は大村藩は持っているが、幕府は持っていないという事。各藩はもちろんの事です。こちらが売らなくても大村藩は困らないでしょう。つまり、事前に通達しておけば何の問題もありません。それよりも大事なのは諸外国です」
「諸外国? イギリスやアメリカに対して何か?」
「そうではありません」
ファビウスの問いにクルティウスは答える。
「今後は……おそらく幕府は各国に門戸を開き、貿易を始めるでしょう。それを踏まえ、もし幕府の要求に従えば、大村藩はイギリスやアメリカから武器を買うでしょう。もちろん必要であれば、ですが。そしてその逆に、幕府の要求に従わなければ、幕府はわが国からではなく他国から買うでしょう。いずれにしても、わが国にとって良い事ではありません」
「確かにそうですね。しかし、どちらかを選べと言うなら幕府を選ばざるをえないでしょう? やがて日本が各国に門戸を開こうが開くまいが、大村藩を選べば幕府とは通商条約どころか和親条約すら結べず、アメリカのみならず諸外国に出遅れてしまいます」
クルティウスは机に近づき、そこに広げられた日本地図を見つめる。
「難しいですね。確かに……選べと言われたら幕府を選ばざるを得ないでしょう。しかし、大村藩とのつながりを切ってはなりません。近いうちに大村藩の貿易担当に会う約束をしています。その中で、お互いの今後、特に武器関連に対してどのような展開を見通しているか、確認するつもりです」
「なるほど、それがいいですね。幕府は海防はしたいが必要以上に各藩が武力を強めるのを警戒していますからね」
クルティウスは頷き、ファビウスと共に紅茶を飲みながら今後のオランダの立場をより強くするにはどうすべきかを考えた。
■数日後 大村藩庁
「秋帆殿、いま大砲と小銃、弾薬の備蓄は如何ほどにござるか」
次郎は高島秋帆に対しては敬意を表して先生と呼んでいたが、本人からの希望と立場的なものもあり、公には『殿』と呼ぶようになった。
「弾薬については子細(問題)ございませぬ。只今は約五万発の蓄えがございます。歩兵が千名として一人当たり50発装備可能です。また大砲は各台場の砲一門につき百発、野戦砲も同様の備蓄がございます」
「うべな(なるほど)。火薬は如何か?」
「子細ございませぬ。ただ……」
「ただ、何ですか」
「金属の薬莢と鋼鉄の船となりますと、まず間違いなく鉄不足に見舞われるかと存じます。蝦夷地や奥州、国内で鉄の産地を探し、また買い求めたとしても、いずれ調達が厳しくなるかと存じます。また領内の鉄鉱石鉱山は、需要を満たすには全く足りません」
「うむ」
これは、予想していた事である。
「さらに、薬莢に関しては様々な料(材料)を考えておりますが、銅や|真鍮《しんちゅう》は値が張りますので、いかに料を安く多く手に入れるか、これにかかっているかと存じます」
「あいわかった。其れについては考えがある」
次郎は資源に乏しい上に狭い領地を恨んだが、どうしようもない。ない物ねだりはできないし、最初からわかっていた事だ。
■数日後 オランダ商館
「お久しぶりにございますクルティウス商館長」
「お元気でしたかジロウ殿」
次郎が訪ねたのは、大村藩とは昵懇の間柄のオランダ商館である。秋帆と一緒に商館に来てから、もう十五年になる。その間何人もの商館長と親密になった。
「実はクルティウス殿、此度はご相談があって参りました」
「これは奇遇ですね。実は私も次郎殿にお伺いしたい事があったのですよ」
次回 第185話 (仮)『次郎の思惑、クルティウスの思惑』
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