永禄十二年(1569年) 十月二十三日 京都大使館
島津が小佐々に敗れ、条約を結んでから十日後。大使館の大使執務室では、純久が書類の山に埋もれながら仕事をしていた。
以前純正に願いでて、検非違使と所司代の人員を増やす事ができたのだが、まだ足りない。
ある意味検非違使と所司代の仕事は減ったのだ。しかし、大使館の大使としての仕事が爆増している。朝廷と幕府からの使者が増えるのは当然の流れであった。
それ以外にも多数あり、全部あげればきりがない。おおよその使者や書状は次の諸将からである。
大和からは筒井家と松永家、河内からは三好左京大夫(義継)。
摂津は池田、伊丹、茨木、入江をはじめとした国衆。
周辺からは紀伊の畠山高政や南部の国人衆、六角に浅井に朝倉。
他には山名、一色、別所、赤松、浦上、三村、毛利、そして四国の三好からも使者や書状が届いた。長宗我部もしかりである。
しかし、現状で反織田である四国三好や筒井順慶などには、当然そっけない対応をする。当たり障りのない対応で、書状の返書には三等筆者をあてているのだ。
筒井順慶は四国の三好と共謀して、松永弾正に対抗しているようだが旗色が悪い。降伏や和議となった場合に少しでも条件を良くしようと、つなぎをつくっておこうという算段なのだろう。
むろん、危険とわかっている橋など渡るはずもない。
純久もそれをわかっているからぞんざいに扱っているのだ。四国の三好にいたっては戦っている。まだ停戦すらしていない。
そんな相手とまともな書状のやり取りができるはずもない。
情報収集なのかもしれないが、純久は当然、筋を通せと言って取り合わない。しかしこれも、小佐々の影響力が増してきた証拠であろう。
「おい」
「おい!」
「おい!!」
「もう、何だよ! うっとうしいなあ!」
ときどき、純久はこういう口調になる。純正と親しい間柄で、現代人的な言動やそぶりを見せる純正を知っているからだろうか。次第に純正の口調が移ってきている。
「お、おう、わるい」
「あ、これは弾正忠(織田)様、申し訳ありませぬ。いつからそこに?」
信長にしてみれば、このような対応をされたのが久しぶり、いや初めてだったのだろう。面食らっている。
「いつからも何も、近習に用件を伝え、しっかり断って返事を聞いてから中に入ったぞ」
純久は居住まいを正し、信長に正対してしっかりと礼をする。
「それから何度呼んでも返事がないではないか」
「それは失礼いたしました。ここ最近業務が溜まっておりまして。佐吉、お茶をお出しして」
こちらに、と佐吉はすでに準備した紅茶を二人分用意していた。ほう、これはまた珍しいな、と信長は紅茶を覗き込み、くんくんと匂いを嗅いでから口にした。
「そのようなこと、お主がすべてやらぬでも良いではないか。最後に確認だけすればよい。もしくは権限を与えてその範囲で任すなど、いかようにもできよう」
「その通りなんですが、殿の代理をしている以上、中途半端な事はできませぬ」
純久も紅茶を飲みながら答えるが、苦笑いだ。
「してこたびは、どうされたのですか」
「いや、なんという事はないのだがな、何か面白い事はないかと思うてな」
えええ……、と純久は思ったがおくびにも出さない。
「そうですね、しかし私が知っているのは主に西国の事ですよ。小佐々家中に関わりのある事にて、弾正忠様にはあまり面白くないやもしれませぬ」
信長は驚いた顔をした。
「何を言うておる。気付いておらぬのか。今や小佐々の動きを気にしておらぬ領主はおらぬぞ。日の本のあまたの諸将が、小佐々の動きを知りたがっておる。それゆえお主に会いに訪れる者が多いのであろう」。
なるほど、小佐々は知らぬ間にどんどん大きく、影響力を持つようになってきているのだな、と純久は改めて考えた。わかってはいたが、他家である信長に言われて再認識したのだ。
「そう言われると、うれしいような、なんだか不思議な気分ですね」
「わしですら、こないだの伊勢征伐で小佐々の大砲を使うたゆえ、人の動きが多くなっておるのだ。小佐々が増えん訳がなかろう」。
純久は苦笑いだ。
「ふふふ、それで、どうだ、何かあるか」
「そうですね。一番の出来事は、殿が、島津に勝ちました」
「なんと!」
「弾正忠様も、すでに知っているのではないかと思うておりましたが」
「いや、それは初耳じゃ」
「では、(間者は)情報の確認をしているのでしょうか。一両日中には報告が来るのではないですか? もしくは留学生からの手紙にも、似たようなものが書かれているかもしれませんね」
「そうかもしれぬな。ううむ、島津が負けたか。小佐々はどんどん強くなるのう」。
信長は深刻な顔をしたが、すぐに純久に察知されぬよう隠した。
「心配なさらずとも、以前も申し上げましたが、わが殿は領地を増やそうなどとは考えておりませぬ。結果的にそうなってはおりますが、殿は肥前の小領主でも良かったのです」
本当にそれだけで、三百万石を超える大国になるだろうか。
そう思うのは信長が特殊なのではない。一般的な感覚なのだろう。棚からぼた餅ではないが、降りかかる火の粉を払っているうちに大きくなった事になる。
いずれにしても、ここまで大きくなれば、おいそれを手を出すものはいなくなる。結果、小佐々の領土拡張はない。
「それから……そうですね、当人たちはあまり知られたくないのでしょうが、いずれわかる事ですし。徳川様や浅井様より、殿と誼を通じたいと申し出がありました」
「それは、聞いておる。純正を独り占めしたい気もあるが、まあ、あいつの事だ。断れんだろう。織田家に害がなければ、よい、と伝えた」
ふふふ、と信長には笑みがこぼれる。俺が先に唾をつけたんだぞ、とでも言いたげである。
「それから、六角殿や朝倉殿からもお見えになりました」
なに? と信長の顔が曇る。
「三好からも参りましたが、あれは敵です。まずは筋を通せと伝えましたが、よろしかったですか」
「当然じゃ、純正は所司代の仕事をしたのみ。その事に関しては感謝しておる。しかし、幕府や朝廷、わしへは何もなく、純正へ使者を出すとは、まったく」
「わが殿は、与しやすいと思われているのかもしれませんね。しかし実際には利のない相手とは組みませんし、危ない匂いのする者は遠ざけようとする嗅覚には優れています」
「ははは、まったくじゃ。そうでなければ三百万石の太守にはなれまい」。
信長は高らかに笑う。
「それから……」
「なんじゃ」
純久は聞きにくそうだ。
「その……浅井様とは、近ごろ、どうなのです」
「どう、とは?」
「その、近ごろ織田様がよそよそしくなった、気がする、ような事をおっしゃっていたので」
ははははは! と信長がまた笑う。
「長政め、そのような事を気にしておったのか。優秀だが、小さい事を気にするのがたまに傷じゃ。わしは義兄ではあるが、主君でもあるのだ。そのような事、いちいち気にするなと伝えておけ」
主君? ……主君? なのか? ああ、そうなのか。
自意識がないんだ、この人。純久はそう思った。殿が考えていた通りだと。
おそらく信長に悪気はないのだろう。そしてそれが、親しい純久ゆえに心の声が漏れてしまった。
しかし、意識してならもちろんだが、無意識ならさらにたちが悪い。なぜだ? となるからである。
「なるほど、伝えておきます。それから申し出のあった街道の整備ですが、殿は快諾するとの事です。あわせて、浅井様からもお話はきておりませぬか? 浅井領を通る街道ゆえ、人夫や材料を供出したいと」
「おおそうだ、そうであった。殊勝な心がけよ。むろん喜んで受け入れた」。
ああ、これはいよいよ殿が言っていた恐れが現実になりつつある。万が一があってはならぬから、浅井様には念を押しておこう、そう考えた純久であった。
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