文久二年二月二十日(1862/3/20) 交渉3日目~
「まさか」
ゴシケーヴィチは即座に否定し、戦争論議で多少過熱した議論を冷ますため、会談はさらに翌日に持ち越した。戦争というワードを出したが、当然戦争する気などない。
第一極東の兵力だけでは大村海軍に勝てないのは情報を得て知っている。
海軍を増強しようとバルチック艦隊を東征させても1年以上かかるし、英仏の妨害があるかもしれない。陸軍にいたってはシベリア鉄道が未完成の今、どのくらいの兵力をいつまでに補強できるかは、まるっきりの未知数だ。
「私が申し上げたいのは、この交渉を早期に妥結させたいという事です。対馬事件の賠償という本題から離れ、樺太問題という別の案件を持ち出すことは、交渉を複雑化させるだけです」
ゴシケーヴィチの言葉を聞いた次郎は静かに目を閉じ、開く。
「領事、私たちは今、単なる賠償交渉をしているのではありません。両国の今後の関係を定める重要な会談を行っているのです」
「太田和殿、何をおっしゃるのですか。対馬問題の解決、賠償のために会談が開かれているのではないのですか?」
ロシアの見解では対馬と樺太の領土問題は別だ。日本側は対馬問題の根本解決は樺太の領土問題の解決が必要。
「確かに、この会談の直接の契機は対馬事件です」
次郎は静かに言葉を続ける。
「しかし、領事。私たちはここで、単なる金銭の授受を決めているわけではありません。これは両国の将来に関わる重大な会談なのです」
「太田和殿」
ゴシケーヴィチは眉間に皺を寄せた。
「賠償金の増額を示したにもかかわらず、なぜそこまで固執されるのでしょうか」
「領事、もう一度申し上げます。対馬事件は、貴国が我が国との条約を軽視した結果です。樺太での衝突も同様です。これらは単なる偶発的な事件ではなく、両国の関係における根本的な問題を示しています」
次郎は姿勢を正した。
「しかし……」
「そして」
次郎は相手の言葉を遮るように続けた。
「この問題を解決せずに、単に賠償金を支払って終わりにすれば、必ず同じような事態が繰り返されるでしょう」
ゴシケーヴィチは深いため息をついた。どちらも正しいともいえるし間違いとも言えない。論理としてはどちらも成立しているのだ。
「太田和殿のご懸念はよくわかります。……では、今回の賠償問題とあわせてサハリンにおける国境策定が必要だとすれば、具体的にどう考えているのですか? 時間はまだあります。個人的に聞きましょう」
次郎は良し! と思った。個人的にせよ何にせよ、樺太の領土問題を協議のテーブルにあげたのである。料理するかしないかは、今後の状況次第だ。
「では、具体的な提案をいたします」
次郎は姿勢を正した。
「まず、対馬事件の賠償として、貴国から40万ドルを支払っていただく。これは領事の権限の範囲内です」
ゴシケーヴィチはうなずいた。
「その上で」
次郎は慎重に言葉を選んだ。
「このうち30万ドルを、貴国の樺太における権益の放棄に対する対価としてお支払いする」
ゴシケーヴィチの表情が変わる。
「権益の……放棄、ですか?」
「はい。現在の樺太は、両国の雑居地であり、明確な国境線も定まっていません。この状況は、今回の対馬事件のような不幸な事態を引き起こす原因となります」
次郎は続けた。
「そこで提案です。貴国が樺太における権益を放棄し、間宮海峡を両国の国境とする。その代わりに、先の30万ドルを権益放棄の補償とする」
「つまり……」
ゴシケーヴィチは慎重に言葉を選んだ。
「実質的な賠償金は10万ドルとなり、残りは樺太の権益放棄に対する補償金となる……という理解でよろしいですか?」
「はい。そしてもう一点」
次郎は日本海の地図を用意させ、樺太から日本海、さらに壱岐対馬を指してさらに続けた。
「これを機に、日本海側における島嶼部全体について、両国の権益を明確に定めたいと思います」
「島嶼部、とは?」
「壱岐、対馬、隠岐の島、そしてその他全ての日本海側の島々です」
ゴシケーヴィチは眉を寄せた。
「領事」
次郎は静かに、しかし力強く続けた。
「今回の対馬事件で明らかになったように、これらの島々の位置づけが曖昧なままでは、また同様の事態が起こりかねません」
ゴシケーヴィチは考え込んでいる。
その結果、現在のロシアの極東における樺太と壱岐対馬、隠岐の島、佐渡等の経済的・軍事的戦略が導き出された。
1. 戦略的価値の比較
※樺太
重要だが、現時点で実効支配できていない。
開発には莫大な投資が必要。
アムール地域の防衛には重要だが、シベリア鉄道なしでは活用は困難。
将来的な価値は未知数だが、現時点での即時活用は難しい。
※対馬
朝鮮半島への足がかり。
日本海の制海権に重要だが日本の強い反発により、保持は困難。
英仏の介入リスクが高い
※壱岐・隠岐・佐渡
実効支配は全く及んでいない。
日本の実効支配が完全。
獲得・維持のコストが便益を大きく上回る。
軍事的価値はあるが、現実的に確保は不可能。
2. 経済的価値
※樺太
石炭等の地下資源・豊富な森林資源・ 漁業権。
しかし開発には莫大な初期投資が必要。
※対馬・その他島嶼部
漁業権程度で 開発コストが高いうえ、維持費用が膨大=投資対効果が低い。
3. 現実的な判断材料
※現在の極東におけるロシアの最優先事項
・アムール地域および沿海州の安定的確保
・ウラジオストクの整備
・シベリア鉄道建設の推進
・清との関係安定化
※リスク要因
・英仏の介入可能性
・日本の軍事力増強
・財政的制約と補給線の脆弱性
4. 結論
樺太は重要だが現時点で活用は困難であり、対馬等の島嶼部は、保持するコストが高すぎる。限られたリソースをアムール地域に集中させる方が得策で、ゆえに日本との決定的な対立は避けるべき。
■文久二年二月二十五日(1862/3/25) 交渉8日目
賠償責任をロシアに認めさせ、その金額の決定と樺太問題をからめての解決に、8日間を要した。
「太田和殿」
「はい」
「念のため確認いたしたい。提案の内容は以下のとおりでよろしいでしょうか」
ゴシケーヴィチは手元の書類に目を落としながら整理した。
「1.対馬事件の賠償金として40万ドルを支払う」
「はい」
「2.そのうち30万ドルを、我が国の樺太における権益放棄の対価とする」
「その通りです」
「3.間宮海峡を両国の国境とし、樺太全島を貴国の領土とする」
次郎はうなずいた。
「そして」
ゴシケーヴィチは慎重に続けた。
「日本海側の全ての島嶼、具体的には壱岐、対馬、隠岐の島、佐渡、その他の島々(条文に明記)が、貴国の領土であることを認める」
「はい。これにより、両国の領土に関する全ての曖昧さが解消されます」
会談室に再び沈黙が流れる。録音機の音だけが、その緊張を刻んでいた。
「太田和殿」
ゴシケーヴィチは、決意を固めたような表情で言った。
「私の権限で、この提案を受け入れましょう」
川路と竹内が、思わず身を乗り出した。
「ただし、条約の文言については、慎重に検討いたしたい」
「もちろんです」
次郎は冷静に応じた。表面上は平静を装っているが、内心では大きな達成感を覚えていた。
「特に、樺太における権益の『放棄』という表現は……」
「『確認』ではいかがでしょうか」
次郎は即座に提案した。
「間宮海峡を自然の国境として、その東西の領有権を相互に『確認』する。そのような表現であれば……」
ゴシケーヴィチの表情がわずかに和らいだ。
『放棄』ではなく『確認』とすることで、ロシアにとって新たに権利を失うのではなく、自然な境界を認める形となる。それによって日本は樺太(占守島以南含む)の領有権を実質的に獲得する。
ゴシケーヴィチの立場としても現状確認という形で決定可能であり、間宮海峡という自然地形を基準とすることで、人為的な境界線引きを避けられる。
「しかし、太田和殿」
ゴシケーヴィチが千島列島の地図に目を移した。
「シュムシュ(占守)島以南の部分については、一点、検討が必要かと」
「はい」
「ウルップ(得撫)島以北の部分については、現在我が国の領有下にあります。これを『確認』という形では……」
次郎は穏やかにうなずいた。
「その通りです。では、第二条と第三条に分けて記載してはいかがでしょう」
「具体的には?」
「第二条として、両国は間宮海峡を自然の国境として、その東西における領有権を相互に確認する。すなわち、海峡より東の樺太全島は日本国の領土として、西のシベリア本土はロシア帝国の領土として、これを確認する」
ゴシケーヴィチは黙って聞いている。
「そして第三条として、ロシア帝国政府は、クリル(千島)列島のうち、ウルップ島以北、シュムシュ島以南の領有権を、2万ドルの対価をもって、日本国政府に譲渡する」
「2万ドル……」
「はい。この金額については、樺太の権益確認30万ドルとは別枠となります」
ゴシケーヴィチは考え込んだ。2万ドルという金額は、面積比から見ても妥当である。また、この部分を『譲渡』という形にすることで、法的な整合性も保てる。
「では、条約全体の構成を確認いたしましょう」
1. 第一条:対馬事件の賠償金40万ドル(うち30万ドルは樺太の権益確認対価として計上)
2. 第二条:間宮海峡を境界とする東西の領有権確認
3. 第三条:ウルップ島以北、占守島以南の譲渡(2万ドル)
4. 第四条:日本海島嶼の確認
5. 第五条:支払い条件(支払期限と場所)
「太田和殿、この内容で正式な条文の作成に入りましょう」
「承知しました」
次郎の考えのその先に、アラスカがあることは誰も知らない。
次回 第276話 (仮)『公儀への報告と対馬事件の国内後始末。くすぶっている火は収まるか?』
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